GINZA CUVO

2006年10月アーカイブ

目に止まったライブハウス アキレス腱損傷から早くも2ヶ月が経過し、ようやくまた地下鉄通勤が出来るようになった。いまだにビッコは引きながら歩くので、通常より相当疲れる。松葉杖、ギプスをしていた頃は、怪我をしていることを周りの人に理解してもらう事が出来た。だが、ギプスがはずれて歩いていると、怪我をしていることを周りにわかってもらえない。周りの人は僕がビッコを引いているのは、元々足が悪いと思っているかもしれない。そう考えると、松葉杖、ギプスをしていた方が精神的には楽だった。自宅から地下鉄六本木駅まで、リハビリを兼ねてゆっくり歩いていると、健康な頃には気がつかないものが目に入る。駅近くには有名なライブハウス、スウィート・ベイジル139があるのは知っていたが気に留めることはなかった。ここはジャズのライブ演奏を行なうのだが、急に覗いてみたくなった。昼間は準備中で中には誰もいなかったが、看板に“渡辺香津美のジャズギターの演奏”と書いてあった。渡辺香津美と言えば、今から20年前、坂本龍一率いるYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が一世風靡していた頃、ジャズ・フュージョン界のギタリストの第一人者だった。僕も大学生の頃、こういったジャンルの音楽をよく聴いたものだ。電話で今晩の予約状況を確認すると、まだ空席があったので、その晩のチケットを確保した。 その晩、夕方7時過ぎにスウィート・ベイジル139に行くと、中はすでに満員のお客さんで埋め尽くされていた。コンサートが始まり、生のアコーステッィク・ジャズに耳を傾けるうちに、僕の記憶は10年前のニューヨークの想い出に結びつき始めた。 マンハッタンのサイクリング 10年以上前のある日苦学生の僕は友人から数十ドルで譲ってもらった自転車に乗りながら、研究室のあるアッパーイーストサイドを出発した。時間は午後7時過ぎ、サマータイム制のニューヨークの夏はまだまだ暮れない。金曜の午後は楽しい週末に向けて、家路を急ぐ車の渋滞がひどいパーク・アベニューで、一台の車がホーンを鳴らし始めた。連鎖反応のように次々と車のホーンが鳴り響き、一種独特な喧噪感が街中を覆う。僕は車で溢れたこのニューヨーク一の目抜き通りを縦横無尽に自転車を操り、南へと向かう。マンハッタンは思いのほか狭く、僕の住処だったアッパーイーストサイド、63丁目から‘自由の女神’のそばにあるマンハッタン南端のバッテリー・パークまで、自転車で30分もあればたどり着く。なかなか進まない研究に焦燥感を持ちながら、ストレス発散にと、サイクリングをすることにしたのだ。 当時、薄給の研究生の僕に出来る楽しみは、活気あるこのニューヨークの街並みを自転車で探索することくらいだった。パーク・アベニューは歴史のあるビルが軒を連ねる。ここに住処を持つことはアメリカ人たちの成功の証、名ピアニスト、ホロウィッツや映画監督、スピルバーグなどの高級マンションを垣間みながら自転車を走らせると、旧パンナム・ビルの大きな看板が見えてきた。僕はすでにニューヨークの中心部、グランド・セントラル駅の近くにいた。グランド・セントラル駅の近くまで来ると、車の流れも次第に良くなっていたが、道ばたに止まる黄色いスポーツカーが目についた。何故なら、その車の中から、派手な服装を着た金髪の白人女性が身を乗り出しているではないか。のろのろ走る車と大差ないスピードで自転車をこぎながら、その黄色いスポーツカーの横を通り過ぎた。「今の派手な女性はいったい誰なのだろうか?」と思いながら、もう一度後ろを振り返ってみると、道行く他の高級車たちに声をかけていた。彼女が高級娼婦であることに僕はすぐに気がついた。ニューヨークは金融の街、ユダヤ系出身の豪商たちがお金を牛耳る世界である。お金があれば何でも手に入るまさに資本主義の最たる街という一面をこの街は持つ。 腹ぺこの僕はポケットに入った数十ドルを握りしめ、安くておいしいものを食べられる場所を探すために自転車をこぎ続けた。グランド・セントラル駅を抜けると、右手にはエンパイア・ステートビルが見えてくる。エンパイア・ステートビルのふもとは韓国人街なので、焼き肉など東洋人の好きな食べ物にありつく事が出来る。前方を見ると彼方にワールド・トレードセンターが見える。焼き肉にも心が揺れたが、僕はそのままパーク・アベニューをまっしぐらに突っ走った。理由は簡単、このまま南下するとイースト・ビレッジと呼ばれるエスニック街にたどりつく。ニューヨークはエスニック文化のるつぼ、特にイースト・ビレッジはインド人、スラブ人、アラブ人など、あまり裕福でない人々の集落だ。僕はここに安くておいしい料理を食べられるポーランド料理店があるという話を同僚のポーランド系研究者から聞いていた。この店に着くと、カウンター席に座った。安っぽい作りだったが、店の中にはおいしそうなスープの臭いが漂い、僕のおなかが鳴った。お客さんはポーランド系の労働者たちだろうか?東洋人の僕が入ってきても見向きもしない。注文はソーセージと鶏ガラの効いた野菜スープにパン、これが定番料理らしい。量は労働者用Lサイズ、あっという間にお腹はパンパンになった。値段は3ドルちょっと、毎日通いたいくらいだった。 ジャズが似合う街 家路についても、独身の僕は特にこれといった用事がない。人間は食欲が満たされると余裕が出る。僕は自転車を今度はゆっくりこぎながら、何か面白い事がないか探す事にした。イースト・ビレッジの近くにはチャイナタウンやリトルイタリーもあるが、満腹の僕にこれらのグルメ・スポットに今は用がない。自転車を西に向かってこぎ出し、ソーホー、グリニッジ・ビレッジなど、ニューヨーク文化発祥の地に向かった。週末とあって、多くの人がこの近辺に繰り出していた。ここでたまたま足を踏み入れたのがジャズ・ライブハウス、ビレッジ・バンガードだった。この場所は今僕が音楽を聴いている六本木、スウィート・ベイジル139にそっくりだ。ニューヨークはジャズの街と言っても良い。黒人やヒスパニックなどの多様な民族が集まるこの土地では、どんな人の感性にでも訴えることの出来るジャズが好まれるのだろう。摩天楼が立ち並ぶ閑散とした通りで黒人が吹くサックスの音色は、ジャズを聴いた事が無かった僕の耳にも心地よく鳴り響いた。 そんなことを想いながら聴いていたジャズギターの演奏は、すでに終盤をむかえていた。彼は17歳で天才ギタリストと呼ばれていただけに、そのレベルは非常に高い。彼は35年以上もの間、ギターを弾き続けているまさにその道のプロと言える。楽器演奏などの技術を高いレベルに維持するには、毎日数時間のトレーニングが必要で、それを怠るとレベルはすぐに落ちてしまうらしい。外科医も同様で、毎日専門的な治療を継続的に行なっていると、良い結果を出し続けることができる。僕の場合、目の周りの治療は一日4件、月に100例近く継続的に行なっているが、そのことを知る友人の一人は「よくもそれだけ毎日同じ治療をして飽きないね?」と尋ねる。僕は「全く飽きないよ。何しろ、同じ治療をやり続けなければ技術が落ちてしまうので、飽きてしまうなどと言っている余裕がないから。」と答える。何しろ、患者さんたちにしてみると、その道のプロに治療してもらうことに越した事は無いのだから。
久しぶりの再会 先日、北海道で整形外科研修医をしていた病院の看護婦さんから突然、クリニックに電話が入った。その頃の仲間4人で東京に遊びに来ているから是非、会いたいという。北海道で勤務していた頃からすでに6年近くの歳月が流れようとしている。彼女たちとは六本木で待ち合わせをして、近くのレストランに行くことにした。僕はアキレス腱を切ってからちょうど5週目で、ギプス、松葉杖は外れたものの、まだビッコを引きながら歩いているので、彼女たちと会うのが気恥ずかしかった。と言うのも、6年前までこの看護婦さんたちは僕とともにさんざんアキレス腱などの手術を一緒に行なってきた、いわゆる‘戦友’と思える仲間たちだったから。今や自分のクリニックを経営する立場となった僕も、ついこの前まで駆け出しの外科医だった。食事をしながら彼女たちと話しているうちに、過去の想い出が昨日のことのように浮かび上がってきた。 駆け出しの研修医 医学部卒業後、直ちに大学院に入学し、米国へ留学をした僕は、日本に帰ってきた時点で臨床医の実力は同年代の医師たちから大きく遅れをとった。外科研修の初日は、いきなりガラスで手を切った患者さんの担当となった。僕は研修病院の院長の前で、緊張しながら縫合をすることとなった。左利きの僕は受針器を左手に持って縫い始めようとしたとき、研修病院の院長は僕に向かって、「縫合は右手を使いなさい。」と注意した。僕は「院長先生、僕は左利きなのですが。。」と言い訳をすると、院長は「うちの看護婦は左利きの先生に合わせて助手をする事は出来ません。君が看護婦さんたちに合わせて、右手で縫合しなさい。」と言った。僕は愕然としたが、その日から右手を使って縫合を行なうようにした。 あの時の院長の一言で、元来左利きだった僕は、外科研修時代行なった数限りない縫合を右手で行なった。そのおかげで右手も左手と同様に使えるようになった。外科手術は、短時間で完成度の高い結果を出すほど術後の経過が良い。僕が両手を使って素早く手術が出来るようになったのは、あの時の院長の厳しい一言のおかげと言っても過言ではない。 外科医の礼儀作法 しかし、当時の僕は医師としての礼儀作法はなっていなかった。そのせいで、医研修医時代に先輩からしこたまお叱りを受けた。外科の躾は厳しく、まず初めに言葉使いから注意された。先輩に何か言われた時はすぐに“はい。”と返事をしなければ怒られた。3年近くの留学で、すっかりアメリカかぶれしていた僕は、先輩に対して敬意を払うことなく気軽に“うん。”というような返事を無意識でしていたらしいが、そのたびに「返事の仕方に気をつけろ!」と怒鳴られた。ある時などは本箱に寄っかかりながら先輩の話を聞いていると、「お前、人の話を聞いている時にその態度はなんだ!!」と怒鳴られた。その頃の僕は「何だよ。軍隊じゃあるまいし、先輩だからと言ってそんなに偉ぶる必要ないじゃないか!」と内心反抗していた。しかし、“外科医の世界では先輩の存在は絶対的で、先輩の言う事を良く聞くほど、外科医として早く成長出来る。”という事実に気がつくまで、そう時間はかからなかった。 僕は心を入れ替えて従順な弟子として謙虚に経ち振る舞うようになった途端、先輩たちが次々にいろいろな事を教えてくれるようになった。そもそも、外科医の世界は経験こそが全てという単純明快な世界、考え方もシンプルな外科医たちは、同じ世界に生きる後輩が素直な態度を示すと、この上なく可愛がってくれる。 手術以外に学ぶ事 整形外科でまず最初に学ぶのは外傷の治療だ。研修病院の院長は僕に向かって「君は普通の外科医より4年も遅れているのだから、一年で通常の研修医の4倍の事を学んでください。」と言った。僕は「はあー。」と気のない返事をすると、院長は「大丈夫。この病院はとても手術が多いので、まず君には手術を全て教えます。これを数学の問題に例えてみると、問題の答えを最初に全部教えることになります。答えを知って解き方を考えるほうが、時間を大幅に節約出来ます。つまり、手術から先に出来るようなれば、君の努力次第で病気の診断も効率的に出来るようになるでしょう。」と言った。それからというもの、僕は一年間に300件以上の手術を、この院長と二人で次から次へとこなす事で外科手術の勘を着実に身につけていった。 ある時、頑強な男が病院を訪れた。その男性は30代前半で、頭は丸坊主だが眉毛は薄く、あごにはひげが生えている。ジャージを着ており、色付きのサングラスをかけていた。その男性は、「先生、魚を切っている時に間違って、小指を切り落としてしまいました。切れた指の断端を縫い合わせてくれませんか?」と言った。切れた患者さんの指を診察すると、小指が第一関節の下ですっぱりと切れていた。僕は“随分、見事に切れたものだ。”と内心驚きながら、「切れた指はどこですか?指があれば再接着出来ます。」とその患者さんに尋ねた。すると、その患者さんは「それが、見当たらないんです。どこかへいってしまいました。」と答えた。僕は内心、“そんな簡単に小指がなくなるわけないんだけど。。”と思いつつも患者さんの言う事を信じた。“どうしたものか?”と思って、学会出張中の院長に電話で相談すると、「患者さんの言う通り、断端を縫合してあげなさい。」と答えた。僕は「指を探して再接着しなくても良いですか?」と聞き返すと、院長は「その患者さんはヤクザの世界から足を洗うために“おとしまえ”をつけているんだよ。指を見つけて再接着したら、彼はヤクザから足を洗えないんだよ。」と、忙しそうに電話を切った。僕は「そうか。よく見るとあの外見はヤクザっぽいよな。」と状況を把握した。北海道の港町では今から8年前でもそんな話が結構あった。臨床医は技術だけでなく、患者さんの状況を把握した治療することも大切で、ヤクザ屋さんのための治療というのも身につけておく必要があった。 そんなことを思い出しながら、今や‘戦友’とも思える看護婦さんたちとの食事会も、そろそろ終わりに近づいた。手術を受けた左足は、数時間も座っているとまたむくみ出す。僕が足を気にしていると、ほろ酔い加減の看護婦さんの一人が僕に向かって「先生がアキレス腱を切るとはねぇ。もう、歳なんだから無理をしないほうがいいですよ!」と言い放った。
ついにオープンしたモンブラン・ビル つい先日、長らく空きっぱなしであった僕のクリニックのビルの1~3階までがようやく開店した。新しいテナントはスイスの一流ブランド、モンブランである。日本でモンブランと言えば、万年筆のメーカーとして有名であるが、実はジュエリーのブランドとして世界的に有名である。今回、銀座でビルの3フロアものショップを出したのは、日本でのジュエリー・ブランドとしてのイメージを定着させるためらしい。 ビルの外装はすっかりリニューアルされ、モンブランのロゴやデザインで一面が飾られた。そのおかげで、このビル自体がモンブランの広告塔となった。ビルの外装で真っ先に目がゆくのは壁に大きく掲げてある女性モデルの写真であろう。この女性の目は綺麗な二重、目の下にくまはなく、理想的な目と言える。つい先日までは無味乾燥だったこのビルも、これらの装飾のおかげですっかり華のある建物となった。この女性モデルのイメージが、僕の行なっている目の周りのアンチエイジング医療とどこか重なる部分があって嬉しい限りである。 目に止まったモンブランの女性モデル それにしても、あの女性は誰なのであろうか?顔はどう見ても20代前半だが、何人なのだろうか?僕の好奇心は女性モデルの顔に集中した。その悩みは東京駅前のコットンクラブで行なわれたオープニング・パーティに出席して、一気に解決した。なんとあのモデル女性が恰幅の良い男性と二人でホールの前に立ち、招待客を招いている。僕は近くのボーイさんに「あの女性と男性は誰ですか?」と尋ねると、ボーイさんは「女性はイギリス人若手オペラ歌手、キャサリン・ジェンキンスさんで、モンブランのイメージ・モデルです。男性はモンブラン社の総社長で、スイスからいらしております。」と教えてくれた。会場の入り口で、彼らは僕にも挨拶をしてくれたので、僕は「私はモンブランビルの7階で美容医療を行なっています。今回はおめでとうございます。あなたのような美しい女性の写真がビルの壁に掲げられるようになって、私のクリニックにお客さんが増えること間違いなしです。」と答えた。すると、隣のモンブランの社長さんは笑いながら、「彼女はまだ何も治療をしていませが、あなたのクリニックの宣伝にもなっているのだったら、彼女の治療費は無料でお願いします!」といきなりジョークで切り返してきた。 一流ブランドとは? モデルのキャサリン・ジェンキンスさんは26歳で、去年発売した初CDは50万枚売れたらしい。セレモニーではモンブランの社長さんが開会の挨拶で次のように述べた。「我々モンブラン社はここまで来るのに100年の歳月がかかりました。今後、東洋の文化の中心のひとつである東京、銀座に、アジアで最大規模のブティックを構えました。これから皆様と一緒に、アジアでモンブランを育てたいと思います。」と。 本来、ブランドイメージを作るためには、良い仕事を長い年月こつこつと積み上げる必要がある。僕のクリニックはまだ1年半と駆け出しのヒヨッコで、モンブランのような一流ブランドの足下にも及ばない。しかし、一歩一歩信頼を積み上げて、将来良いブランドイメージを作る事こそが僕の本望である。

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