GINZA CUVO

2006年1月アーカイブ

’差別化’されるもの 僕のクリニックでは顔の治療、その中でも目の周りの治療を中心に行っている。それは、銀座で開業している僕のクリニックは激戦区の真っただ中にいる。周りと同じことをやっていてもお客さんは来てくれない。僕のクリニックではこれが得意ということを全面的に押し出してこそ患者さんが来てくれると思っている。キーワードではいわゆる”差別化”というものだ。競合他院から差別化される何かがあってこそ、cuvoの存在価値がある。では、cuvoが目の周りの治療で、他のクリニックとどのように差別化されているかについての経緯を述べたい。 そもそも、僕が目の周りの治療に興味を持ったのは十仁病院で勤務する間、保志名先生を始めとする顔専門の名医が在籍していたため、目の症例が圧倒的に多かったからだ。僕も何か特別なものを身に付けたいと常々思っていた。目の下の治療は皮膚のたるみがある場合は必ず皮膚切開法を行うことが一般的だったが、多くの患者さんたちが「うーん、やっぱり切られるのはちょっと怖いんで止めときます。」と躊躇する人が多かった。僕が患者さんの立場になってみても切られるのだけはいやだと思ったので、何かそれに代わる良い方法があればと考えていた。他の先生たちの共通の意見は「目の裏から脂肪を取っても、皮膚がたるむからね。やっぱり皮膚を切らなきゃだめなんじゃないのかな。」というものだった。僕はその度にいつも「でも、やっぱり人間は本能的に切られるのはいやだからな。」と自分の胸の中でつぶやいていた。 ある時僕は脂肪吸引の研修にポルトガルのリスボンを訪れた。この先生の専門は体幹部の脂肪吸引だったが、時として顔の治療を希望する患者さんが訪れていた。この先生は目の下のクマ(くま)、たるみ治療になんと皮膚の上から3ミリくらいの小さな穴を開けて脂肪を抜き取る治療を行っていた。白人の場合、傷跡が目立たないという体質があるので、皮膚の上に3ミリの穴を開けるのは悪くないかもしれないが、白人に比べ皮膚が厚く、傷が目立ちやすい東洋人には向いていないのではと正直思った。もう一つの問題点、脂肪を取った後の皮膚のたるみについてこの先生に次のようにと尋ねてみた。「先生、脂肪をとってもその後の余った皮膚はどうするんですか?」先生は「それは大丈夫ですよ。皮膚は脂肪が減った分くらいであればすぐに縮んできれいになりますよ。」と答えた。僕はその先生の過去の症例をみせてもらったのだが、確かに皮膚のたるみはそれほど目立たずきれいになっていた。僕はこれを契機に皮膚を切らずに目の下のクマ、たるみを治す意欲に駆り立てられた。良く考えてみると皮膚切開法でも皮膚を切り取る量は微々たるもので、もしかすると切り取らなくてもあまり差が出ないのではないかとひらめいた。それからは症例は少なかったものの、目の裏から脂肪のみ取り出す場合と余った皮膚を切って脂肪を取り出す方法を比べてみると確かに東洋人の場合でもそれほど差がないことが判明した。 施術について詳細はこちら目の下のクマ(くま)目の下のたるみ ’ライブサージェリー’で学んだこと 十仁病院で勤務医をしていた頃、国際美容外科学会が韓国で開かれたことがあった。僕は目の周りの治療について発表するためこの学会に参加した。僕の発表はともかく、各国から発表する先生たちの話はとても興味深い。それは諸外国の先生たちとはライバル関係にはないため、自分たちのやっていることをオープンに話せる環境にあるからだ。こういう学会に出席してこそ、本当に何が良い治療なのかわかるのだ。この学会では米国からも若手の先生たちが出席していた。僕は留学経験があって英語が苦にならないので、これらの先生たちとはすぐに仲良くなることが出来た。韓国人の先生たちもやはり英語がそれほど得意ではないので、知人の韓国人の先生からこの米国の先生たちの通訳を頼まれたのがきっかけだった。 この学会の最終日には’ライブ・サージェリー’と言って、学会の中で手術を実況中継するセッションがあった。通訳をしていた僕は米国の先生の助手としてこの手術に参加することになった。治療内容は顔面リフティングの新しい方法と目の裏からの目の下のクマ(くま)、たるみ治療だった。ライブ・サージェリーはとても興味深い。なぜなら、ソウル市街のクリニックで行っている治療を、生でそのクリニックから車で一時間ほど離れた学会会場に実況中継するからだ。執刀医はヘッドホン型のマイクをつけながら、学会会場で聞いている聴衆に説明しながら手術を行う。僕はこの米国人執刀医が手術をしやすいように介助をするのだが、目の前で見られるこの助手の位置は手術を学ぶ上で特等席だった。 特に興味があったのは目の裏からの行う目の下のクマ(くま)、たるみ治療のほうだった。僕もこの治療法を行っていたのだが、必ずしも治療成績が安定しているとは言えなかった。僕の方法では過不足なく脂肪を取り除くことが出来ず、時として取り残し等が生じたからだ。表から皮膚切開を行うと、直視下で脂肪を同定出来るので間違いなく取り出せるのだが、手技の難しい目の裏の粘膜から適切に脂肪を取り出すことがどうしても上手く行かなかったのだ。そのため僕は目の裏からの治療法を患者さんたちに積極的に勧めることは出来なかった。 この米国人医師の方法は画期的だった。ニューヨークのバッファローという場所で大学の教授をしながら、自分でクリニックを営むこの先生の方法は大変論理的で僕は思わず「なるほど、これはすごい!」とうなった。それは目の裏からの侵入法のわずかな違いなのだが、この先生の方法だと目の裏から適切な量の脂肪を取り出すことが出来るとわかったのだ。この方法は米国ではかなり昔から行われている方法らしいのだが、このような良い方法がどうして有名でないのだろうかと思った。よく考えてみると、米国では日本人ほど多くの人に目の下のクマ(くま)、たるみがないので、それほどまで普及していなかったのであろう。そこで僕は’はっ’と思った。「日本人は7割近くの人に目の下のクマ(くま)、たるみがあるじゃないか。」と。「もしかするとこの方法を日本で行えばとても役に立つのでは。」という第六感が働いた。僕はこのライブ・サージェリーを終えた後、この先生に「先生、この目の裏からの治療はとっても素晴らしいと思います。僕もこの手技を身につけたいので、先生の治療を見学しに行ってもよろしいですか?」と尋ねた。この先生は快く引き受けてくれて、その夏僕は一週間ほど米国にこの治療を習得するため旅立った。この先生からいくつかのポイントを教えていただくことで、僕はすっかりこの手法を身につけた。 施術について詳細はこちら目の下のクマ(くま)目の下のたるみ 僕自身がこの治療法の患者になった。 僕は米国で習得したこの治療法を日本でも積極的に行うようにした。この3年間ですでに500人以上の患者さんにこの治療を試みた所、とても満足度が高く、僕の予想通りの結果となった。この方法が優れているのは、目の下の脂肪をきれいに出すことが出来るので取る量を調節出来ることだ。人によって皮膚の厚さ、色、骨格などは千差万別だ。目の下のクマ(くま)をきれいに取るためには、個人個人のこの体質に合わせて、適切に取ることが最も重要であることにこの3年間の治療経験から気がついた。これからも、どんどん取りつづけるだろうが、実は僕にも目の下の脂肪がたっぷりとあって、年々それが膨らみだしていた。この治療をやればやるほど僕の患者さんたちはみんなすっきりしてゆくのに僕だけ取り残されてゆく気持ちがしてならなかった。ただし、この治療は自分自身に施すことだけはどうしても出来ない。ヒアルロン酸やボトックスは自分の顔に打ったことがあるが、自分の目を使うために目の治療だけはどうすることも出来ないジレンマがあるのだ。僕はこの治療を受けるためにそのうち僕がこの手技を習った米国バッファローの先生の所まで行かなければならないと覚悟していた。しかし、昨年春に開業をした僕はこのクリニックを安定させるために毎日必死なので、1週間近く固めて休みを取ることは到底不可能だった。 昨年春に開業を始めてから目の下の治療を受ける患者さんが次々に訪れ、治療を受けるとすっきりと若返ってゆくのをみて僕のジレンマは募るばかりだった。どうすればよいか考えた末に日本でこの治療法を出来る先生を一生懸命探してみた。その結果、慶応大学医学部形成外科講師の緒方寿夫先生がこの技術を習得していることがわかった。僕はすぐにカウンセリングの予約を取った。形成外科診療で忙しい緒方先生のスケジュールで僕のカウンセリングは一ヶ月後に設定された。この時、僕は患者さんの気持ちがよくわかった。一度治療を受ける決心をすると一刻も早く治療を受けたくなるということを。 一ヶ月後に僕はカウンセリングで緒方先生に初対面となった。いざ、患者の立場になると意外に緊張するものだ。僕は自分の担当医の一挙手一投足を観察した。本当にこの先生に治療をお願い出来るのか全集中力を使って観察した。なんて言ったって自分の顔をいじらせるのだから、信頼の置ける医師でなければ任せることは絶対に出来ない。第一印象で緒方先生が知性的でしかも運動神経のいい方であると感じた。次に僕は手を見た。外科医の場合、手を見ると僕はその先生が手術が上手かどうかわかると思っている。緒方先生の手はしっかりと締まっていて、相当数の手術をこなしているのがすぐに分かった。この時点で僕はこの先生の治療を受けることを決心した。緒方先生は僕の予約情報から僕が銀座で美容系クリニックを開業していることを知っていた。僕は緒方先生に僕が米国で習った方法をどのように習得したのか尋ねてみた。緒方先生は「スペインにこの方法を得意とする先生がいて、その先生から学んだ。」と教えてくれた。この方法には2つの流れがあり、一つがヨーロッパ流、もう一つが米国流で緒方先生と僕はそれぞれ別のルートから習得したのだ。手術法には使う道具を含めて多少の違いはあるものの、結果は同様になることがわかった。僕はその場でこの治療を受けたかったのだが、緒方先生が美容治療を行える日時は限られていて、僕の予約はなんとそれから2ヶ月後になってしまった。僕はひたすら辛抱するしかなかったが、僕と同様の方法で治療できるのは日本ではこの先生しかいないため、どうすることも出来なかった。 僕は自分の治療日が来るのを指折り待った。そして昨年10月上旬にその日はやってきた。この治療法は僕が毎日やっている方法なので、僕は何も説明を聞く必要がなかった。全く緊張しなかったのだが、ベッドの上に横になった途端、急に不安に苛まれた。僕の患者さんもこの治療を受ける前はさぞかし不安なのだろうとこの時感じた。そういえば、患者の中には前日の夜は緊張のあまりに寝ることが出来なかったという人もいるほどだ。治療が開始されてからすべての瞬間について、僕は自分の目の下で今何がされているのか手に取るようにわかった。 治療は30分足らずで終了し痛みもほとんどなかった。2~3日程度のむくみはあったものの、結果は良好で今では目の下のたるみが消え、かなりすっきりした。自分が患者になることで患者の気持ち、この治療法の価値について納得することが出来た。また、医療行為を受ける場合、自分が信頼の置ける医師を見つけることが何よりも大切であると感じた。今日も僕のクリニックにはかつての僕と同じ悩みを持つ患者さんが訪れている。僕は患者さんに「実は僕もこの治療の患者だったんですよ。」と告げながら、出来るだけ自分が患者さんだった時の気持ちを忘れずに診療に臨むように心がけている。 施術について詳細はこちら目の下のクマ(くま)目の下のたるみ
いわゆるプチ整形の定義とは? 昨今の美容医療は数年前に流行った‘プチ整形’の影響で切らない治療が一般的となってきた。かつての美容外科と言えば、耳の後ろからこめかみに伸びる大きな切開線を加えるフェイスリフトなどの本格的な手術が一般的だった。では、いわゆるプチ整形とは一体どういった治療を意味しているのだろうか?それは以下のような定義に当てはまるものを言う。 1. メスを使わない。 2. 人に気がつかれない程度の自然な仕上がり。 3. 安全(万が一気に入らない場合は元に戻すことができる。) 例を挙げると、この条件に当てはまる格好のものが埋没法を用いた二重治療だ。これは髪の毛ほどの細い糸を用いて上瞼に二重を作る方法だが、仕上がりはとても自然で、元々の二重なのかそれとも埋没法によるものなのか区別がつかないほどである。この方法とても上手なのは銀座ノエルクリニックの保志名勝先生だろう。彼の二重の症例数は日本で右に出るものはいないと思う。僕は十仁病院時代、保志名先生の行うこの治療をひたすら見学して学べたことは、僕が美容外科をライフワークにしてゆく上でかけがえのない経験だった。 小学生のプチ整形 十仁病院に勤務していたある日、小学6年生の女の子がお母さんとともに病院にやってきた。12歳くらいの女の子はすでに思春期を迎えているため、容姿のことがとても気になるらしい。この女の子は一重を気にして病院にやってきたのだが、お母さんは娘のことを見て困り果てていた。女の子は学校で一重のことを友達に指摘され、周りから虐めのような状態に陥ってしまったらしく、部屋から出てこなくなってしまったのだ。部屋で何をしているかと言えば、四六時中針金のようなものを上瞼にあてて二重を作ろうとしているらしかった。それ以外にも瞼にアイプチと呼ばれる接着剤をつけたりとお母さんも大切な娘の目に何かあったら大変と困惑していたのだ。女の子の目を観察すると確かに生まれついての一重だったが、心配だったのは目の上の状態だ。針金による細かい傷とアイプチによる炎症で皮膚がかなり痛んでしまっていたからだ。お母さんもこんな幼い子を美容外科に連れてきたのは、美容治療をする方が今の状態よりまだましと思い、清水の舞台から飛び降りる覚悟で来たにちがいない。 女性の場合16歳前後で体の発育が終了するので、その後であれば治療は行っても良いと思われる。12歳だと体の発達が終わっていないので、その時点で行った治療が成長を終えた後にどうなるか不安な要素があるので、積極的に行うべきではない。小学生へのプチ整形へは賛否両論があり、小児科の先生たちに言わせるともってのほかだというだろう。しかし、この女の子のように一重の悩みがノイローゼになり、自分の目を針金でいじるような危険なことをするくらいであれば、プチ整形を考えてみるのも悪くない。 お母さん、女の子と僕の3人でじっくりとカウンセリングを行い、この治療のメリット、デメリットを説明した。その結果、この治療に踏み切ることになった。治療自体は5分程度で終わり、人に気がつかれるような大きな腫れはない。しかも、糸で縫うだけなので万が一の時には糸を外せば元に戻すことが出来る。治療は無事終わり、可愛らしい二重にすることが出来た。二重まぶたの施術について 医師として忘れてはいけないこと。 美容外科の場合、常に忘れては行けないことは医者にとって患者は次から次へと訪れるお客さんの一人に過ぎない。だが、その患者にとっては大切な顔、体をあずけるという意味では全てを託すくらいの気持ちがあることだ。個人個人に感情移入していては僕たち医師は体がいくつあっても足りないのだが、一人一人の治療に携わっている時は全力を尽くして望まなければならない。 この女の子はしばらくしてから診察にやってきた。彼女は診察室に、にこにこしながら入ってきた。この思春期の女の子は、一重のコンプレックスから解消されてすっかり前向きな明るい普通の子に変身したのだ。お母さんは娘にこの治療を受けさせて本当に良かったと言ってくれた。僕たち美容外科医の仕事とすれば、プチ整形による二重治療は時間にして5分程度、値段も安価である。しかし、このように患者さんやその家族からの感謝の気持ちを感じると、頂いたお金とは比較にならない喜びがある。 この気持ちは僕が北海道で普通の病気の患者さんたちを治療していたときと同じ感覚だ。とかく、美容外科は金儲けのためにやっているという偏見がある。だが、そんなことはない。あくまで、患者さんから感謝される仕事をして、それに見合った報酬を頂くに過ぎない。十仁病院で美容外科修行の門を叩いた時、梅沢院長にはっきりこう言われたのを覚えている。「美容外科は世間が言うほど儲からないし大変な仕事だよ。それでもやる気があるんだったら、チャレンジしてみなさい。」と。6年が経過して梅沢院長の言葉が正しいとわかった。何故なら周りを良く見ていると、お金もうけばかり考えている美容外科医はあまり成功していない。やはり、‘つねに患者さんのために最善を尽くす’という医師としての大原則だけは美容外科医も決して忘れてはいけないのだ。
サーフィンの楽園の島 年末休暇を利用して2日間沖縄の北に位置する与論島を訪れた。与論島は沖縄本島の隣にあるが、沖縄県には属さず鹿児島県の島だ。人口6000人、周囲22キロの小さな島だがここを訪れたのには意味がある。僕は学生時代、北大でウインドサーフィンを始めた。それは大学1年の夏だった。始めるやいなや、兄の影響で僕はすっかりこのスポーツにはまってしまった。簡単そうに見えて以外に難しかったのが、僕の心をくすぐったのだ。兄たちは自由自在に乗りこなしているのに、僕は岸辺近くで数え切れないくらい海に落ちて、海水浴に来ていた子供たちの笑いものとなった。初日は悔しくて夜の8時ころまでひたすら練習したのだが、海もすっかり静まりかえっていた。それでも練習しているとなんとかボードの上に立つことが出来た。兄たちが僕に向かって「おーい、そろそろ帰るぞー。」と呼んだ。僕は悔しくて必死になっていたのであたりが暗くなるのも忘れていた。それからしばらくたってからだった。サーフィンボードにしがみついてバランスをとっていると、岸にいる兄の友達が「よーし、その調子だ。進んでいるぞー!」と声をかけてくれた。すっかり暗くなった足元の海を見ると、僕のサーフィンボードはゆっくりと前に進んでいた。僕は嬉しくて思わず「やったー!」と大声で叫んだ。それから毎日ウインドサーフィンに明け暮れる生活のとなった。当時の日本はバブル経済のおかげで、この手の派手なスポーツがもてはやされた。あるとき買ったウインドサーフィン雑誌に”ウインドサーフィンの楽園、与論島”という記事を見つけた。 北海道の夏は短く、一生懸命練習したくてもその環境は厳しかった。ある年の11月の初旬、まだ若かった僕は友達と札幌の海で今年最後のサーフィンをと出かけた。随分寒く、始める前から手がかじかむほどだった。思い切って海に出たものの、途中から雪が降り出してきて、海に落ちると頭が”きーん”と鳴るほど寒かった。このような環境では沖縄でサーフィンをすることは夢のように思えた。あるウインドサーフィンの雑誌にはこう書いてあった。”与論島でウインドサーフィンをするのであれば季節風の吹く冬へ”と。ウインドサーフィンは風が吹かなければできないが、その風が絶え間なく吹き、南国の冬の水はそれほど冷たくないとすれば当時の僕にとって、それはまさに楽園であった。特にウインドサーフィンの道具は学生には高く、満足には買うことすらできなかったのに、この楽園の島、与論島では海辺に新品の道具がたっぷりと用意されていたのだ。しかもここには航空会社の作ったリゾートがあって、その雰囲気はまるで地中海のようだった。 夢と現実の違い 僕が持っていたこの与論島のイメージは何しろ今から15年くらい前のことだ。それからいつの間にか時間はどんどん過ぎ去ったが、与論島に対する僕の楽園のイメージはいつまでも冷めなかった。年末はほんの少しでもよいので気分転換したかった。しかし、海外に行くほど時間もないし、美容外科という仕事上神経を使うので、海外旅行ラッシュに巻き込まれてストレスを受ける気にもなれなかった。そのときふと与論島のことを思い出したのである。国内旅行であればそれほど混雑に巻き込まれることはないし、何しろたったの二日間、帰国ラッシュが始まる前に戻ってくるのだ。 羽田から2時間半で那覇空港に着き、30人乗りのプロペラ機で30分かけて与論島へ到着した。バスに乗って、5分もしないうちに雑誌に載っていた地中海のコテージのようなリゾートについた。期待で胸が膨らんだ。何しろ15年前に持ち続けていた夢の島への訪問が実現したのである。しかし、夢と現実が大きくかけ離れていることに気がつくのにそれほど時間はかからなかった。このリゾートはすでに過去の遺産となっていた。ほとんどこの場所を訪れる人はおらず、あたりは古く錆付いていた。過去には賑わっていただろうと思われるビーチにはパラソルチェアやサーフボードの残骸がそのままにされていた。数多くの地中海風のコテージがあったものの、ほとんどが空き家のようになっていた。これはバブル時代の過剰投資の遺産となっているのだと直感した。与論空港には30人乗りのプロペラ機しか飛んでいないので、こんなにたくさんのコテージがあってもお客さんが島に来て利用できなかっただろう。それでも景気のよかったときは何とか維持できたのだろうが、バブルがはじけてから破綻に向かったことは手に取るようにわかった。この島への楽園のイメージは僕の中で止まっていたのだが、現実は時代の流れとともにどんどん変化していた。 それではウインドサーフィンはどうかと思い、タクシーに乗って海へと向かった。タクシーの運転手にこのリゾートについて「運転手さん、このリゾートはどうなっているんですか?」と聞いてみた。運転手は「昔は賑わっていたんだけどねー。今はもうすっかり廃れてしまった。航空会社が支援していなければ今頃潰れてるよ。」と僕の予想は的中していた。あいにく雨模様の天気で気温もサーフィンをするには肌寒かった。ビーチについてみると数人のサーファーが雨の中サーフィンをしていた。浜辺でたたずむサーファーの一人に「天気はどうですか?」と聞いてみたところ「沖縄の冬は風は吹くけど曇りか雨が多いよ。」と教えてくれた。僕の楽園のイメージは晴れた日に風がヒューヒューと吹いていると思ったのだが、これもまた僕が勝手に作り上げていた幻想だった。実際はウエットスーツを着なければ肌寒くて、南国でのサーフィンというわけにはいかなかったのである。あいにく僕の滞在する二日間も雨のち曇りという天気だった。 実際にこの島に来てみて初めて僕の持ち続けていたイメージが現実とはかけ離れているものであることが分かった。僕は自分自身に「世の中って、往々にしてこういうもんだよ。自分で勝手にいいことばかり考えてるんだ。」とつぶやいた。 やっぱりここに来て良かった! あっという間に二日間は過ぎ、東京に戻る日になってようやく日が射してきた。気温は23度くらいまで上がってきた。帰りの飛行機は午後4時なので午前中は行動する時間があった。「なんだよ。今頃になって天気が良くなってきても、もう遅いんだよ。」と僕はつぶやいた。このリゾートには古くなったレンタル・スクーターがあったので、僕はすかさずホテルのカウンターで尋ねた。「島をスクーターで一周するのに、どれくらい時間かかりますか?」ホテルのボーイさんは「だいたい30分くらいですかね。」と答えた。 僕はスクーターを借りて、島一週を試みた。この島には東京都と同じ日本とは思えないほど自然が残っていた。畑の舗装されていない小道を走るとバッタが一斉に飛び跳ねた。これは30年以上前僕が北海道で夏暮らした田舎街をフラッシュ・バックさせた。スクーターはどこにでもアクセス出来た。僕は人気のない海辺にスクーターで近寄った。そこには「ウミガメの産卵地、近寄るべからず。」と書いてあった。あまりにも天気が良いし、誰もいないので僕は裸になって泳いでみた。多少水は冷たかったものの、あの北海道の冬の冷たさに比べてみれば、まさに楽園だった。僕は「やっぱりここに来て良かった!」と感じた。 島の道路沿いにふと神社があるのに通り越してから気がついた。僕は慌てて戻って神社で新年のお参りをすることにした。神社は見晴らの良い岬にあり、水平線を見渡すことが出来た。ハワイを思いださせるような絶景だ。気合いを入れておみくじを引いたら大吉だった。「去年、開業前に鎌倉で引いた時は凶だったのに。今年はさらに飛躍しなければ。」と思った。

遺伝子とは? 医学生の頃、基礎教育でカエルの卵の細胞核内の遺伝子を取り出す実習があった。遺伝子はローマ字のxのような形をした2組のペアから成る染色体と呼ばれる物質から出来ている。何故2組あるかと言えば、一つは母親から、もう一つは父親から由来する遺伝子があるからだ。この実習では20組くらいからなるカエルの遺伝子ペアを揃えることが出来れば終了だった。医学生の頃の僕はとにかく早く実習を終えて遊ぶことばかり考えていたから、遺伝子の意味など全く考えていなかった。遺伝子が生物にとってこれほど重要な意味を持つとわかったのはニューヨークにあるロックフェラー大学で遺伝子研究を行ってからだった。 遺伝子は今から50年以上前にニューヨークの遺伝子研究者ワトソンとクリックによって発見された。人間の体のほとんどがタンパク質から出来ていると言ってよい。このタンパク質を作る情報が遺伝子の中にあり、それが核酸と呼ばれる特殊な物質からできていることを発見した業績によって、ワトソンとクリックはノーベル賞を受賞した。 ロックフェラー大学 僕の留学していたロックフェラー大学はとても歴史のある大学だった。日本にも馴染みがあるとすれば、野口英世博士がこの大学で、梅毒や黄熱病の研究をしていた。大学図書館には野口英世博士の銅像と研究風景写真が飾られているのが印象的だった。この大学はとても優秀で、過去に20人くらいのノーベル賞受賞者を輩出している。大学長になるにはノーベル賞をもらっていなければなれないし、僕の周りにもノーベル賞を狙って研究しているような連中がごろごろしていた。医学生時代不勉強だった僕も周りの雰囲気に圧倒されて、この大学に居る時はさすがに一生懸命勉強した。。ある日、ロックフェラー大学で、遺伝子の存在を証明したワトソン博士の講演を聞いた時はさすがに感動した。 生物は遺伝子を運ぶ乗り物に過ぎない?ワトソンは“生物は遺伝子を運ぶ乗り物に過ぎない。”という格言を残した。研究前には全くわからなかったこの言葉の意味が、研究を終える頃にようやくわかるようになった。では、この“生物は遺伝子を運ぶ乗り物”とは一体どういうことなのか?人間は先祖から引き継いできた遺伝子の役割をその個体ごとに表現しているに過ぎない。生まれてきた時に引き継いだ遺伝子は自分たちではどう変えることも出来ない。 例えば、僕は「もっと背が高く生まれてきたらどんなに良かっただろう。」と常にコンプレックスを持っていたが、これは無い物ねだりであってどうすることも出来ない。僕の兄は180cm近くあって大柄だ。兄が引き継いだ遺伝子は僕が親からもらったものより、身長の面では優秀だったのだろう。このように我々人間は遺伝子の組み合わせによって体の構造も機能も異なる。つまり遺伝子の表現されるままの存在が生物なのだ。 遺伝子上の男女の違い 男と女の違いがたった一つの遺伝子の差から出来ていることを考えてみてもなるほどと思う。動物には性染色体と呼ばれる遺伝子があり、女性はそのペアがXX、男性は XY だ。つまりたった一つの遺伝子の違いによって、男性と女性の差が出来る。この組み合わせに変なことが起きると厄介なことになる。例えば、遺伝子の組み合わせが間違って、XXYなどとなると女性と男性が混ぜ合わさったような人間になる。 性染色体を見るとXには女性らしさ、Yには男性らしさの遺伝子が入っている。人間はアフリカの黒人の女性から進化してきたことが遺伝子から証明されている。ということは人間は女性の体が基盤となっていて、男性の体は女性の体に修飾されることで成立している。男性が男性ホルモンの量が少ないと女性っぽくなるのは体の基本が女性から出来ているからだ。 たった一つの遺伝子の違いによって、このような外見上の違いばかりでなく、考え方や行動にまで男女差が現れることはとても興味深い。一般的に女性のほうが現実的で、男性の方がロマンチストと言われるのは男性には女性にないY遺伝子があって、男性は現実的なものに何かがプラスαされるのかもしれない。この一つの遺伝子の違いからなる男女が社会的にどのように異なるかは、これまで心理学の専門家によって詳しく分析されているので僕の出る幕ではない。あくまで美容外科医として感じ取れる女性の特徴について述べてゆこうと思う。
渡辺淳一先生 北海道出身の医師の先輩で著名人といえば作家の渡辺淳一氏がいる。彼はかつて、整形外科医師だった。ある時僕は北海道、室蘭市で開かれた整形外科学会に参加したところ、渡辺先生がこの学会に招待され記念講演を行った。医師による学会の発表は大半の場合、原稿の丸読みかスライドを使ったお決まりの発表で、どちらかというと眠たくなる場合が多い。渡辺先生の講演は一般医師の発表と全く違って、壇上に立つとスライドも原稿もなしに話を切り出した。もちろん、今や彼は医師として働いていないので、他医師たちと立場が違うのだが、何も準備なしに話を出来るという彼の能力に対して一気に興味が湧いた。 渡辺先生は、室蘭にまつわる自分の思い出話を始めた。あまりその内容は覚えていないのだが、彼が学生時代に恋に落ちた女性と室蘭で泊まった夜の話だった。彼の小説を読むと、“男女の愛とは?女性とは?”というテーマが常に存在する。それは、彼自身の経験を通して感じたものが小説に書かれていると思われるが、その経験についていくつか語ってくれた。渡辺先生は話はじめてから時間が経つにつれてどんどん饒舌になり、その内容も面白くなってきた。いかに彼が女性に対して観察力があり、さまざまなことを感じているのかうかがえる。 “あべさだ”の情愛 その中でも、小説“失楽園”の題材となった“あべさだ”に関しての分析はとても面白い。一般的に男女は出会ってコミュニケーションをとりながら恋愛に落ち、肉体関係に結びついてゆく。しかし“あべさだ”の場合、これが逆だった。出会った時二人はそれほど惹かれ合っていなかったが、肉体関係から始まった二人は、その関係を重ねるうちに情が入り愛し合うようになる。二人は激しく愛し合うようになり、一緒に居る時は窓も開けないようにした。二人の愛のエネルギーが外に漏れるのを避けるためにだ。この関係は肉体関係が発端となり、心までどっぷり深く愛し合うようになって抜けられなくなってしまった。不運にも“あべさだ”と男の関係は不倫だった。どうしても男を手に入れることの出来ない運命にあった“あべさだ”は、その男を永遠に自分のものにしておく意味で男の一物を切り落として持ち歩いている所を捕まった。これは実話らしいが、渡辺先生が言いたかったことは肉体関係から‘ハマって’しまう愛は存在するし、そのほうが抜けきれなくなってしまう場合が多いらしい。小説“失楽園”は“あべさだ”の話をヒントに、肉体的愛欲がいわゆるプラトニック・ラブに発展する男女愛を描いたものだ。 難しい男女関係 一般的男性の場合、結婚を考えるとすればたいていの場合はこうだ。「一人暮らしもそろそろ疲れてきたし、会社の上司や家族から結婚した方がいいのでは。」と言われ、身近な相手と結婚する。そんな二人が結婚すると、あくまで他人行儀なので、良い関係を維持するには相手を尊重する大人の態度が必要だ。しかし、いったん関係が悪くなるとほんの少しのことでも気になってしょうがなくなる。あるカップルは同じ歯磨き粉チューブを使っていたが、夫は几帳面な性格でチューブの下から少しづつ使わなければ気がすまない。妻はアバウトな性格で、チューブの真ん中から勢い良く‘どん’と凹みをつけて押し出す。それを見た夫はどうしても許せず、口論となってしまった。いったんこのような些細なことを言い出したら切りがなくなり、結局二人は離婚することになってしまったそうだ。 愛の希薄なカップルは些細なことでも破綻することがあるので、たとえ肉体関係から始まろうと愛の深い関係の方が良いかとも思える。しかし、これも長く維持できるかといえば極めて危うい。小説“失楽園”にしても結局二人の自殺で幕が閉じた。ではどのような男女関係が良いのかと言えば、誰もはっきりとした答えが出せない。そこが渡辺淳一先生の追求するテーマ、‘そこはかとない男女の愛’なのだろうか。 偉大さの影にある絶え間ない努力 渡辺淳一先生は整形外科医としてもとても優秀だったらしい。背も高くなかなかのハンサムなので、女性にもとてももてたという話を聞いたことがある。当然、それくらいの経験がなければあのような恋愛小説など書けるはずがない。医師としても優秀、ハンサムで文才もある。それだけでも相当なことなのだが、渡辺先生の最も素晴らしい所はそれで甘んじなかったことだ。彼はスナックで飲んでいる最中でも、スナックのママが面白い小話をしたらそのままにして置かなかった。僕だったら「ははは、面白い話ですね。」程度で済ましてしまう。渡辺先生の場合、どんなに飲んでいるときでもそういう面白い話があればすかさずメモを取っていたらしい。天才と言われたエジソンの言葉に「偉大な仕事は1%の才能と99%の努力から成る。」というのがある。渡辺先生も同様にどんなに女性に持ててもそれで満足せず、それを世に伝えると姿勢を持ち続けているためにあれほどの人気作家となることが出来たのだ。 “そこはかとない男女関係”を知る上では、女性がどのような生き物なのか知ることがとても大切だ。僕は美容外科医として女性を観察できる立場にある。顧客として常に関わる女性を知ることは美容外科医としての必須条件でもある。今後は美容外科医として気がついた女性の魅力や特性について、ブログに記載してゆけたらと思う。
皆様、新年あけましておめでとうございます。銀座CUVOクリニックは今年も皆様のニーズにお答えできますよう、スタッフともども精一杯努力してゆくつもりですので、よろしくお願いいたします。 今年の抱負 普段は忙しくてテレビを見ている暇がないが、大晦日はひさしぶりにのんびり出来たのでテレビをつけてみた。紅白歌合戦も視聴率あ42%とまずまずだったようだ。僕はプライドとK-1ばかり見ていたが、こちらの視聴率は15%くらいだったらしい。紅白歌合戦の視聴率がどんどん下がっているとのことだったが、それは当分の間心配なさそうだ。何しろ日本は超高齢化社会を迎えている真っ最中で、この高年齢層が急にK-1にチャンネルを変えるとは考えにくい。他に裏番組といってもビートたけしの番組で2007年から宇宙人の侵略が始まるというものだったが、たとえそうだとしても大晦日にそんなこと知る必要はないと思った。この時間はあまり頭を使いたい人はいないので、歌番組かK-1のような格闘技が番組としてふさわしい。 のんびりすごしているとあっという間に2006年となった。さて、今年の抱負は何かと朝風呂に入りながら考えてみた。思い出すと去年の今頃は開業前準備と果たして経営的にうまくいくのかという不安にさいなまれていた。去年はなんとか乗り切れたものの、今年はさらに経営を安定させることが先決だ。顧客は少しずつでも増えてくれているので、このまま悪い評判がなければ大丈夫なはずだ。悪い評判の一番の原因は軽率な治療による顧客からのクレームだ。とにかく慎重な態度で一人一人の顧客に対応すべきだ。次に考えられる悪評の原因が周りからの誹謗中傷だ。「2チャンネルで悪口をかかれるようになったら、世間で有名になった証拠。」とも言われるが、あのページに書かれて喜ぶ人は誰もいない。常に患者さんのためになる医療をしていれば、敵など作るはずがないと信じて前に進んで行くつもりだ。 時々刻々と変わる世の中 今年の抱負として時代の流れについてゆくことも忘れてはいけない。ついこの間まで、情報を得るには雑誌など紙媒体による宣伝広告しかなかった。今は自分が知りたいことだけをインターネットでピンポイントで調べることが出来る。インターネットが僕のビジネスでも最も重要なマーケティング戦略となった。他業種でそれは随分前から常識だ。今日の朝日新聞を見ると、東大生が過去卒業後の就職として、官僚や大手一流企業に就職する人間が過半数だったのに、今はITビジネスで起業する人間の方が多くなっているらしい。彼らの大半が30代前半で独立し、成功するために昼夜を問わず働いている。彼らは”既存の古い体質のビジネスほど、ITにとってチャンスがある”と判断し、まだまだ世の中にたくさんあるこれらの旧体質のビジネスに革命を起こしている。 実は僕たち医師の世界も旧体質の確固たるもだ。いまだに教授の言うことは絶対的で、研究課題から就職先まで教授の一存で決まってしまう。それは我々医師が広く情報を有していないために、自己判断できず、権力に迎合する体質が身についてしまったからだ。この旧体質もやがてIT情報革命の力で崩壊するかも知れない。そのときに周りよりも一歩先に出ることが肝心だ。僕自身も30代後半で何とか独立に漕ぎ着けたものの、ついこの間まで医師という国家資格の上にあぐらをかいて「どうせ、僕は医者だからくいっぱぐれることなんかないんだ。」とたかをくくっていた。しかし、この慢心が自分の成長を妨げる最大の原因だった。この若き起業家たちに負けないよう、IT情報戦線の最先端に立っていなければならない。 個人的な課題 個人的な面ではどうだろうか?やはり、今年も自分自身のアンチエイジングの追求をし続ける予定だ。昨年からブログに記載しているように、アンチエイジングはダイエットと密接な関係がある。一気に行うのではなく、ダイエットのように末永く一生続けることがアンチエイジング治療でも大切だ。昨年から週2回、ジムに通いウエートトレーニングを始めているが、これもあまり無理しないことだ。僕の友人、ウイリアムは長年ジムでトレーニングしているが、”ボディビルダーにでもならない限り、週2,3回でジムは十分”という結論に達した。あまり、トレーニングを行うと返って太りやすい体質になるらしい。確かに僕も最初の頃、張り切りすぎて一日おきにトレーニングをしていると、にわかに筋肉らしき体重がついてズボンがパンパンになってしまった。トレーニングによる食欲増進効果が著しくなってしまって、必要カロリーを軽くオーバーしてしまったらしい。それよりも適切な運動を出来るだけ長く続けることが体に良いのだ。 ミセス・リーについて ウイリアムの義理の母、ミセス・リーは80歳になるのだが、先日ウイリアムたちとショッピングに福岡までやってきた。彼女は昼から夜までずっと僕たちと行動を伴にしていて、高齢だということをまったく感じさせない。ファッション、美容医療、何でも興味を示し、その反応は僕たちと変わらない。ウイリアムたちも高齢だからといって、歩くスピードを緩めたり、ショッピングをした荷物を代わりに持ったりという、いたわりのそぶりさえも見せない。逆に、そのようないたわりをミセス・リーに見せたら、「あなた、失礼よ!」と怒られそうな勢いだ。その若さを保つ原因は1、自分が年をとっていることを認めないこと、2、楽観的なこと、3、そして何に対しても興味を持ち続けること、だろう。人間はこのようなキャラの持ち主を老けさせないように作られているのだと思う。なぜなら、このような人は周囲に「自分も80歳になっても、あのように元気でいたい。」と思わせるオーラを出しているので、重宝されるからだ。同じ80歳でも「あー、自分も80歳になったら悲惨だ。」と思わせるようなオーラでは駄目なのだ。彼女は香港の自宅のプールで365日、毎朝30分どんなに気温が低くても泳ぐそうだ。元気な人には必ずその秘訣がある。僕もアンチエイジング医療を専門にする者としてこの医療を自ら実践し続けるつもりだ。そして、ミセス・リーのように”何歳になっても周りの人たちに希望を与え続ける人間になる”というのが今年自分に課した抱負だ。

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