GINZA CUVO

2012年3月アーカイブ

御礼奉公

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先日、取引先の社長さんと雑談をしていたら、”御礼奉公”という言葉が彼の口から出た。僕はそれがどういう意味かわからずにいたら、それは「奉公人が、決められた期間の奉公が済んでも、恩返しとして主家や雇い主のもとに、ある期間とどまって働くこと」と教えて頂いた。

その時、僕はふと研修医時代にお世話になった病院のことを思い出した。医学部卒業後、大学院へ進学した僕は、臨床研修が同級生たちより4年ほど遅れた。その遅れを取り返すために、僕は北海道にある地方機関病院で、救急医療、外科手術、麻酔研修をまるで丁稚奉公の如く、病院に住み込みながら昼夜を問わず働いた。

その甲斐あって、僕は3年間でその病院からほぼすべてのことを学び、後れを取った同級生たちに追いついた。そして3年目の研修医終了時、翌年の進退について僕は迷った。 何故なら、当時の僕は臨床整形外科医として少しでも実力を延ばしたいと思い、この病院で学ぶことがなくなった途端、さらにスキルアップできる施設に転職出来ることを強く望んでいたからだ。

だが当時の僕は、その病院の主な整形外科手術を任される立場にあり、院長から翌年も病院にいるよう頼まれ、渋渋その要請に応じた。今振り返ると、その一年が僕のその病院に対する”御礼奉公”だったのだと確信したし、それが出来て良かったと思っている。

我々は決して自分一人の力で生きているのではなく、お互い支え合いながら生きている。僕が研修したその3年間はその病院院長をはじめ職員、そして患者さんたちから、医師として生きるたくさんのことを教えて頂いた。もし僕があの時”御礼奉公”せずに転職していたら、それは自己中心的な行為であって、どこかでしっぺ返しが来たに違いない。

戦後65年間、我々は拝金主義、物質中心主義、核家族化などの悪影響で、先人が大切にしていた思いやりや感謝の気持ちをすっかり忘れてしまった。その証拠として、上記に述べた”御礼奉公”の意味さえ、現代人の多くは知らない。

我々が本当の意味での心動かされるのは、お金など、物質には変えられない思いやりや感謝の気持ちだったはずだ。これからは僕も、今の自分があるのは周囲の人たちの助けがあったことを再認識し、そのことに対する感謝を忘れない人間でいたいと思う。

昨年3月11日の午後、いつものように手術をしていると、突然揺れが手術室を襲った。すぐに地震だと悟り、レーザーメスを置き、揺れが収束するのを待った。だがその揺れは小さくなるどころか、次第に大きくなり、手術室の酸素ボンベなどが倒れるほどだった。

ビルの警報が鳴り響き、このビルで働く人々も外に避難し始めた。僕とこの手術を介助するクリニックスタッフも次第に不安を感じ始めたが、たとえビルが倒壊しても患者さんを置き去りにして逃げ出すことは出来ないと判断し、この地震が収束することを祈りながら待っていたことが記憶に新しい。

この地震は東北地方の太平洋沖で発生したことから、東日本大震災と呼ばれているのは周知の事実だが、被害の少なかった東京でも交通手段が麻痺し、パニック状態に陥った。当時日本にいた諸外国人たちは、その後に発生した福島原発放射能汚染問題で国外待避した。

震災前はネオンに輝いていた銀座の街や地下街も、震災直後からしばらくの間、節電の影響ですっかり暗くなり、この国を襲った震災がただらぬもであったことを実感させた。東北方面には時計やレンズなどの精密機械工場がたくさんあり、こういった工場が被害を受け、デジタルカメラなどは供給不足に陥り、欲しくても手に入らない状態がしばらく続いた。

だが震災後1年近く時間が経過すると、こういった経済的ダメージは次第に解消され、むしろ東北地方では震災後の復興景気で社会が活性化しているらしい。テレビや新聞などのマスコミで扱われる震災関連のニュースも次第に減少し、現時点では福島原発問題もほぼ収束したように我々は感じ始めている。

だがメルトダウン(炉心融解)を起こした原子炉からは依然高濃度の放射能漏れが発生しており、残念ながらチェルノブィリの時と同様、放射能漏れは今後数十年にわたって継続する可能性が非常に高い。

”のど元を過ぎれば熱さは忘れる”ということわざにあるように、我々は1年も経過すると、過去に起きた悲惨な出来事もあっという間に忘れてしまう生き物なのだ。だが放射能汚染の悪影響は、むしろこれから表出してくる可能性の方が高い。

二度とこのような事故が起こさないためには、原発のようにリスクの高いものを簡単に容認するのではなく、先ず始めに安全性を確かめてから、慎重な姿勢で受け入れるような意識を我々一人一人が保つべきであろう。

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