GINZA CUVO

”おくりびと”

| コメント(2) | トラックバック(0)

最近、インドを始めアジア映画がアカデミー賞を受賞することが多い。本年度アカデミー賞では日本映画、”おくりびと”が外国映画部門で受賞した。通常、日本映画はあまり見ないが、この映画は予想以上に面白く、最後まで飽きずに見ることができた。何故この映画がヒットしたのだろう?僕はその理由として誰しもが経験し、共感するいくつかのポイントを見いだした。


1)偶然性

主人公は音楽家の仕事に挫折し、旅行代理店と納棺師の仕事を間違えた。納棺師とはこの世を去ってゆくご遺体を綺麗にする仕事だが、通常この手の仕事を自ら選択することは少ない。だが、偶然の出会いが意外にも功を奏することが人生に起こりうる。映画で主人公は勘違いでこの仕事を選んだ。

僕の場合、医学部を卒業後何科の医師を目指すべきか悩み、友人の紹介で学生時代最も成績の悪かった病理学大学院に進学した。実際の病理学の仕事は、亡くなった方の真夜中の解剖など、僕の想像を絶する内容で、正直病理教室への進学を当初は後悔した。映画の主人公はご遺体と初めて接したとき、卒倒しそうになっていたが、僕も同様だった。だが、人間にはどんなことにも慣れる能力がある。半年くらい経つうちに、嫌いだった病理解剖にもすっかり慣れ、今思うと外科医としての度胸をつける貴重な経験となった。


2)職業に対する偏見

主人公は納棺師の仕事を妻にも隠し、友人から軽蔑の目で見られた。死は恐ろしい出来事、そういった印象を誰しも持つが、死は誰にでも必ず訪れる極めて身近なものだ。死を恐れて蓋をするのではなくもっと身近に向き合えば、死を新たな旅立ちとしてもう少し寛容に受け入れられるはずだろう。僕は納棺師の仕事が死をオープンにする神聖なものと感じた。

 今から10年近く前、僕は通常の保険診療から、美容外科という自由診療へ方向転換した。だが、当時の美容整形、美容外科の印象あまり良いとは言えず、「何故、美容外科へ?おまえもついに学問を諦めて、金に走ったか。」など、周りからは偏見の目で見られた。保守的な両親にもこの転身を伝えることが出来ず、上京後こっそりと美容外科の門を叩いたことが記憶に新しい。その後僕は自分の得意分野の治療を向上させ、患者さんたちから喜びの声を聞けるようになった。そして、美容外科への転身が間違っていなかったことを確信した。仕事の価値は他人の目では決まらない。どんな仕事でも堅実に行えば、きっと周りからも認められるはずなのだ。


3)人間関係の葛藤

主人公とその母は、彼が幼い頃に父親に捨てられていた。主人公は父に激しい怒りを持ち続けていた。そんなトラウマを持つ主人公だが、妻にも隠していた納棺師の仕事が発覚すると、妻に別居を迫られた。 亡くなった父親と対面した主人公は、納棺師として父を清める間に父を許した。最終的に、彼は妻にこの仕事を認められ、ハッピーエンドでこの映画は終わった。こういった身近な人間関係に生じる葛藤も、生きている限り誰も避けては通れない。もちろん僕も同様に、さまざまな葛藤を繰り返しながら何とか現在に至っている。何故このような苦労をしなければいけないのだろうかと思うことも少なくない。だが、最終的にハッピーエンドで終わることが大切なのだから、これからも諦めずに一生懸命生きてゆきたいと思う。


トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.cuvo.jp/mt/mt-tb.cgi/592

コメント(2)

「おくりびと」まだ見ていませんが、「死をオープンな物にする」というのは、残された人達と先だった人が「共鳴」する、ということなのかなと思いました。お葬式で、そのように故人を偲んで上手く共鳴できれば、生前の確執や個人的な思いを上手く浄化できて、残された人達の人生の糧にできるのかなぁと思ったこともあります。変な表現ですが、「上手く見送ってもらえるように逝けた人」はきっと周りから見たらハッピーエンドな人生だったのでしょうね。映画の中で、主人公を捨てた父親の人生にしても。
この映画を見た外国人女性は、「自分が死んだらきっとただの物のように扱われるだけだわ」って嘆いていました。いろいろと考えさせられる一言でした。

我々は生と死を全く別のもので、死んでしまえばすべてが終わりと多くの人が思っています。しかし、この考え方は果たして正しいのでしょうか?
僕は肉体から魂が離れても、その魂は永遠に生き続けると信じています。だから死は旅立ち(スタート)であり、決して終わりではないと思っています。
我々がスピリチュアルにもっとオープン出来て、本当の命の意味や、この次元以上の世界を知れば、死は恐れるに値しないことがわかると思っています。

コメントする

カテゴリ

月別 アーカイブ

ウェブページ