GINZA CUVO

2009年1月アーカイブ

多忙な毎日 当直室のけたたましい電話の音で僕は目を覚ました。週3日程度の夜間当直を長く続けているうちに、どんなに深い眠りに落ちていても、電話の音で反射的に起きるのが当たり前になっていた。外科研修生活は4年目を迎えていた。過去4年間、僕は交通事故などの外傷をほぼこなせるようになっていた。午前中の外来診療、入院患者の回診や検査等を行い、気がつくと昼休みというような毎日だった。昼休みは職員食堂に向かい、病院食を食べる。午後は骨折や人工関節の手術が毎日待っていた。仕事の疲れから回復するにはゆっくり眠ることがもっとも効果的なはずだったが、週3回の当直は安眠を妨げ、ボディブローのように身に堪えた。疲れが溜まるとすべてに悪影響を及ぼした。体調は崩れがちで、多少の寒さで風邪を引くようになった。神経も高ぶり、多少のことでいらだちを感じ、同僚の看護師さんにあたったりするようになった。このままではまずいと思い始めていた。昔、”ショーシャンクの青い空”という映画を見たことがあった。その中で、何十年も収容された囚人の一人が「こんなに長く刑務所生活が続くと、普通の生活に戻るのが億劫になる。街に戻るより、ここにいたほうがましさ。」と。僕もこのまま多忙な毎日を続けていたら、この囚人と同じように、環境を変える意欲を失い、このままの生活が永遠に続くことを危惧した。”そろそそろ気分転換が必要なのかもしれない。と思うと同時に、”外科医として何を専攻すべきなのか?”など、自分の将来を考える時間が必要だと思った。 ある昼休み、当直室にあった医学系新聞を何気なく見ていた。その中に”米国医師短期研募集”というページがあった。その場所は米国、フィラデルフィアだった。僕は迷うことなくこの短期研修に応募した。当時勤務していた病院の院長が気分転換が必要な僕の気持ちを理解したのか、すぐに3ヶ月程度の研修を認めてくれた。外科研修を始める前、僕は4年間の大学院生活の半分以上をニューヨークで過ごしていた。その間、共同研究の関係で、何度かフィラデルフィアに足を踏み入れたことがあった。フィラデルフィアは、トーマス・ジェファーソンやベンジャミン・フランクリンが18世紀後半、アメリカ独立宣言をした、米国でも由緒ある街だ。今回、僕がフィラデルフィアを訪れたのは秋の深まった10月後半だった。時差ぼけを少しでも早く解消しようと、到着した日の夕方、眠い目をこすりながら散歩に出かけた。数年前にちょくちょく来た街なので不安はなく、むしろ懐かしい気がした。秋風が吹く10月のフィラデルフィアはかなり寒かったが、気がつくと街の中心を流れるデラウェア川ほとりまで歩いていた。この通りを歩きながらこの街並みを眺めていると、数年前までの米国で暮らしを想い出した。僕はかつてこの国で臨床医になろうと試みたことがあった。 米国での夢 僕がニューヨークに留学中していたのは、その時点から4年以上前だったが、ロックフェラー大学院の一研究員として試験管を振る毎日だった。僕の住んでいたアパートのあるニューヨーク、アッパーイーストサイドは上流階級とインテリが暮らす街として有名だった。この近辺にはロックフェラーやハワードヒューズ財団など、莫大な資金力による大病院や大型の研究機関が軒を連ねていた。この国での臨床医の地位はとても高く、僕は彼らをいつも羨望のまなざしで見ていた。数年間このような環境で研究生活を続けていると、”いつか僕もこの国で臨床医になりたい。”と思うようになった。留学生活が2年ほど経過した頃、僕の英語力はこの国で通用するようになった。だが、滞在が長期になり、この国で給料を生活しながら、米国人たちと同じレベルで生活するようになって、あらためて気がつくこともあった。それは、この国では我々東洋人たちには決して超えられない人種の壁が存在することだった。”アングロサクソン”と呼ばれる英国系白人たちには、白人であるが故に社会的に高い地位が与えられており、彼らの人生はそれ以外の人種とはスタートラインが異なっていた。逆に、白人以外の人種は、経済的に豊かで、恵まれた人生を手に入れたければ、自力ではい上がるしかなかった。米国の医師や弁護士にはユダヤ人が多い。ユダヤ人は”アングロサクソン”系白人とは違うが、彼らは一般的に頭脳明晰で、社会的地位の高い医師や弁護士資格を取得することにたけていた。その結果、彼らはアングロサクソン系白人たちと同等の地位を得ることが出来たが、白人以外でこのような高い地位を得るには、それなりの努力が必要だった。 僕の日本医師資格はこの国では全く通用しなかった。”この国で臨床医として認められたければ、この国の医師免許を取得するしかない。英語で医師国家試験勉強をやり直すガッツさえあれば、試験に合格できるはず”、お金も地位もない雇われ研究者の僕はそう心に決め、猛勉強を開始した。努力の甲斐があって、僕は米国医師免許を取得することに成功した。だが、資格を取得しても、すぐに臨床医になることは出来ない。また、僕が望んでいた外科医の道は固く閉ざされていた。それは、米国では外科医は医師の中でも最も地位と収入が高く、競争率が激しいからだ。内科医としての研修先であれば、イスラエル系の病院で募集があった。僕は正直迷った。当時の僕は、米国で臨床医になることにただ漠然と憧れを感じているに過ぎなかった。しかし、このように人生の大きな選択肢を迫られると、”人生で何を優先順位に選ぶべきなのか?”を慎重に考えるようになった。”米国で暮らすことが本当の目的ではない。自分が本当にやりたいことを選択しよう”と思った。それが外科医への道であり、その夢が米国で叶わなければ、日本に戻ろうと思った。悩んだ末、僕は米国での内科医より、日本での外科医の道を選択したのだった。
テロ犯と勘違い 何故、彼らがそんなに興奮しているのか腑に落ちないまま、彼らの命令に従った。僕がこの飛行機の乗客であることを確認すると、男たちは落ち着きを取り戻し、僕に次のように説明した。「一度空港の外に出ると、絶対に空港内に戻ることは出来ません。それは防犯上の理由です。我々はFBIの私服捜査官です。空港内をテロ行為から警備しています。今回のように、一度空港外から出たにもかかわらず、そのような手荷物を持ちながら駆け足で飛行機に近寄ると、我々はあなたを航空機を爆破するテロ犯と疑わざるを得ません。もし、あなたが命令に応じない場合、射殺することする可能性もあるのです!」と。僕は唖然とした。確かに、僕は丸めた上着を片手に持ちながら、小走りで飛行機に向かった。それはテロリスと間違われても仕方のない行為だった。20年前、この国はすでにテロに対する緊張感が高まっていた。一人のFBI捜査官が近づき、意気消沈している僕の肩に手を回しながら、「驚かせて申し訳なかったね。しかし、多くの人命がかかっている航空機テロの恐怖は計り知れません。だから、我々は飛行場は常に厳戒態勢で警備しているのです。」と言った。僕は「迷惑をかけて申し訳ありませんでした。」とこの捜査官に謝罪した。 とんだハプニングに見舞われたが、 彼の優しさに心打たれ、僕は安堵した。 空港には訪問先の医師が迎えに来てくれる予定だったが、待ち合わせ時間になってもなかなか現れない。携帯電話のない時代、ひたすら待つしかなかった。僕は腹をくくって、旅行カバンを地面に横置きにし、その隣にあぐらをかいた。空港はさまざまな人々でごった返していた。旅行客は盗難などの犯罪に巻き込まれやすいという。確かに旅行カバンやカメラをぶら下げながら、ぼーっとしていれば、”私は旅行客です。お金も持っていますから、盗んでください。”と宣伝しているのと変わらない。だが、 空港内に座り込む僕のことを日本人旅行客とは誰も思わなかったらしく、誰一人僕に目をくれる者はいなかった。このように図々しく振る舞う方がこの国ではむしろ安全なのだ。待ち合わせ時刻から一時間近く経過してようやく迎えの医師が現れた。この医師の午後の診療が長引いたのが遅れの原因だった。 ロス・アンジェルスでの生活 さんさんと降り注ぐ太陽と真っ青な空に涼しい空気、この居心地の良さは他に類をみない。「どうしてロス・アンジェルスはこんなにさわやかなんですか?」と医師に尋ねると、「冷たいカリフォルニア海流が天然の冷房装置になっているのです。」と答えた。8月の夏真っ盛りのこの時期、医師宅がある海岸沿いの気温は25度だが、ロス・アンジェルスから内陸に位置するアリゾナの気温は40度近くまで上昇する。このようにロス・アンジェルスは熱すぎず、寒すぎずの温暖な気候のため、多くの人がこの街に住み着くようになった。敷地面積の広いアメリカの高級住宅街はとても静かで、僕は小鳥のさえずりとともに朝8時頃、気持ちよく目覚めた。本当の贅沢とは日々の暮らしにこのような自然をふんだんに取り入れ、心静まる空間を得ることなのだろう。 庭の一角には米国人の成功の証と言われるスイミングプールがあった。起床とともにプールで一泳ぎし、水着の上にバスローブを羽織った。水は幾分冷たかったが、さんさんと降り注ぐ太陽の光はすぐに体を温めてくれた。プール際のテーブルに、庭で今朝取れたてのグレープフルーツとシリアルが用意されていた。 ロス・アンジェルス高級住宅街はハリウッド映画でおなじみだが、まさに映画の1シーンの中にいるような生活がそこにあった。こういった雰囲気に熱しやすい僕は、このライフ・スタイルにすっかり魅了され、こんな生活が将来出来たらと思うようになった。 また、米国にはのんびりとした週末を過ごす習慣がある。金曜日の午後になるとラジオ番組は”まだ仕事をしている人はさっさと仕事は切り上げましょう!楽しい週末を過ごす準備はできてますか?”と週末モードを盛り上げる。この日、僕は医師の診療見は学を午前中に終えた後、午後は医師の知人たちと公園の芝生の上で、医師の妻が作った自家製サンドイッチを食べ ながら、のんびりと過ごした。夕方になると涼しい風が吹き、真夏だというのにジャケットが必要になるほどだった。夜は野外でシェークスピアの舞台を見た。 一時を過ごしたロス・アンジェルスの高級住宅街での生活。当時の僕にとって夢のように素敵な場所だった。だが、実際にはこの国には人種差別、格差社会、麻薬汚染、テロの脅威などさまざまな問題同時に存在していた。旅行で異国を訪れる限り(お金を使う側にいる限り)、その国の悪い面を見たり、いやな思いをすることはあまりない。そのため、僕はこの旅行を通して、米国の良い点ばかりを知ったような気がした。この国の良い点、それはこの国に暮らしているとしばしば感じる明るく楽しいムードだったが、それらはいかに生み出されているのだろうか?その答えは、彼らが自分たちの人生を最大限楽しむにはどのように生きるべきかを常に優先的に考えているから。彼らは楽しい週末を過ごすためには平日一生懸命働くことを惜しまない。そして、一生懸命働いた報いとして、週末は金曜午後から休みにすべきと多くの人が思っている。それとは逆に、日本では勤勉さを優先的に考え、金曜午後から休みにするような寛容性は一般的に受け入れられない。むしろ、あまり長く休むと罪悪感すら感じ、休暇は一生懸命働いたご褒美程度といった仕事優先の文化が存在する。僕はこの旅行から、こういった日米文化の根本的違いに気づいた。そしてこの気づきは、後年僕の人生に大きな影響を与えるようになった。

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