GINZA CUVO

2007年8月アーカイブ

悪夢のような出来事 今年もすぐに8月を終えようとしている。昨年、僕の身に悪夢が降りかかった8月31日はかなり蒸し暑い夜だった。その夜、僕はアキレス腱断裂を受傷し、慈恵医大病院に担ぎ込まれた。玉のような脂汗が止めどなく流れ落ちた記憶が新しい。手術は当日の夜11時過ぎに緊急的に行われた。その理由は早く手術をすれば回復が早いので、僕が無理を言ってお願いしたから。通常、アキレス腱断裂の手術は脊椎麻酔と呼ばれる下半身麻酔をして行うが、僕の場合、局所麻酔のみで行った。アキレス腱の真上に打たれた局所麻酔の痛みはこれまで経験した痛みの中で最も激しかった。あまりにも痛いので、麻酔を打たれた後、思わず笑ってしまったほどだ。人間はあまりにも辛いとき、ついつい笑ってしまったりすることもあるが、あの痛みはまさにその閾値に達していた。2ヶ月間のギプス固定後、ギプス除去時の開放感は信じられないほど気持ち良かったが、マッチ棒のように細くなった左下腿を見て愕然とした。受傷後約4ヶ月間はびっこを引いたが、半年くらい経過すると、普通に歩きだし、スキーが出来るまでに回復した。現在、手術を受けた部分の赤い瘢痕が痛々しく残っているが、この傷跡もやがて薄くなるだろう。 あのときの怪我以来、何故アキレス腱断裂を受傷したのか腑に落ちなかったが、最近ようやくその真相を理解できた。そもそもアキレス腱とは何だろう?アキレス腱は正式医学用語で腓腹筋腱と呼ばれ、長さ15cm、体の中で一番長い腱組織である。主に歩行時や跳躍時に足首を伸ばす際に用いる。アキレス腱を断裂すると、つま先立ちが出来なくなる。僕はあのときフットサルの試合中だった。怪我は1時間の試合のラスト1分で起きた。去年の今頃、毎日の診療と友人たちとのつきあい等が重なり、疲労が蓄積していたことは事実である。通常、疲労が蓄積した場合、“足がつる。”と言った前兆が現れる。しかし、あのときは前兆なしに、突如アキレス腱が“ばちっ”と音を立てて切れてしまった。それはまるで後ろから誰かに蹴られたかのような感覚だった。アキレス腱は血行が悪いので、加齢とともに硬くなり易い。僕はあの日診療を終えた直後から、準備体操もせずいきなり試合に出た。それが最大要因であることに間違いない。 アキレス腱断裂の真相 アキレス腱の名前の由来は、ギリシャ神話に登場する英雄、“アキレウス”に由来する。アキレウスが生まれたとき、その生みの親の王が、アキレウスの肉体を不死身にしようと、まだ赤子であったアキレウスを“神の川”に浸した。そのときアキレウスのかかとをつかんで川に浸したため、かかとの腱(アキレス腱)のみが不死身とならなかった。アキレウスはトロイア戦争で、この弱点であるアキレス腱を弓で射抜かれ、命を落とした。この伝説からアキレス腱は致命的な弱点の代名詞となっている。 腑に落ちないのは何故僕のアキレス腱は、前兆もなく突然切れてしまったのだろう?この伝説を知り、僕は“ピン”とくるものがあった。ギリシャ時代の戦乱中、戦士たち身を守るため鎧を身にまとって戦った。鎧は相当な重さだっただろう。だが、ヒトのアキレス腱の強さは変わらない。この重たい鎧に耐えかねて、アキレス腱を切る戦士が少なからずいたことは想像するに易しい。僕も同様だった。当時の僕は友人の勧めでしきりに筋力増強のためのウエイトトレーニングを行っていた。筋力と体重が増加した結果、まるでギリシャ時代の戦士が鎧をまとったときのように、アキレス腱に強い負担がかかっていたのだろう。現日本ラグビー代表大畑大介選手(31歳)にも同様なことが起きた。今年1月、右足のアキレス腱断裂を受傷したが、ワールドカップ予選に向けて猛然とリハビリを行い、6ヶ月後に見事に復帰を果たした。しかし、今月25日、今度は左アキレス腱断裂を受傷した。彼の場合も過激な筋トレで身につけた強靱な筋力とその重みにアキレス腱が耐えきれなかった。 僕は去年の怪我以来、筋力増強のためのウエイトトレーニングは中止し、水泳などの有酸素運動のみを行うようにした。もちろん、サッカーにも復活したが、練習前に十分なストレッチ行うようにしている。僕は“自分の身の丈を知る。”ことがいかに重要であるか、アキレス腱断裂という過酷な経験を通して学んだ。
男らしさに関与するホルモン 先日、健康診断の意味も兼ねて、自分の男性ホルモン値を計測してみた。その値は210ng/ml。通常値は200-750ng/ml なので、男性としてはかなり低い。ちなみに女性の男性ホルモン値は6-86 ng/mlなので、なんとか僕も男であることに間違いはない。美容外科医や美容皮膚科医のように対象とする顧客がほとんど女性の場合、ひげがぼうぼうで汗だらだらのいかにも男性的特徴を漂わせていてはいけない。むしろ、中性的な男性のほうが、女性は安心して相談したり治療を受けたり出来る。僕の場合、どちらかと言うとやや中性的な男性に属するかもしれない。美容室に行ったりすると、女性と間違われたこともあるくらいで男としてはやや情けない気もする。 では、男性ホルモンはどのような働きをしているのだろうか?肉体面で、男性ホルモンは筋肉や骨の発達に関わる。また、性欲の維持にも必要であることが知られている。精神面では男性ホルモンが決断力など、男らしい考え方をもたらすとされる。近頃、男性更年期障害の存在が知られるようになったが、その特徴は自信喪失やうつ病などがあげられる。これらの症状はストレスなどが原因で、男性ホルモンが極端に減少した場合に起こると考えられる。 逆に過剰な男性ホルモンが肉体的に及ぼす影響はハゲや濃いひげなど。また、内面的には男性ホルモン過剰になると、怒りっぽく切れやすいなどの特徴が現れる。何事もバランスが必要だが、美容外科医の場合、男性ホルモンはやや少なめほうが良い。それは患者さんを診る医師自身が女性の気持ちをわかる方がよいから。男性的傾向が強い性格の場合、女性の気持ちを理解するのは困難となりかねない。 ゲイ男性と男性ホルモン さて、中性的な男性と言えばゲイを想像するかもしれない。お隣の国、中国は日本よりもゲイ人口が圧倒的に多い。そのせいか僕と初対面する中国人女性は、僕のことをゲイと勘違いする場合が多い。彼女たちは男性ホルモンが少なく、僕のように中性的に見える男性をゲイと勘違いする。本当にゲイ男性は男性ホルモンが少ないために中性的に見えるのだろうか?答えはNO。ゲイ男性と男性ホルモン低下の相関関係は科学的に証明されていない。ゲイになる仮説は胎児が妊娠中に起こった体内トラブル原因とのこと。つまり、このトラブルの影響で、性を支配する脳領域が阻害され、性認知障害を引き起こしているらしい。従って、僕のように男性ホルモン値が低く、一見、ゲイに見える場合でも実際にはそうではないことが多い。逆に、ゲイ男性は男性ホルモン値が正常で、男らしく見えることが多い。 ゲイ男性にとって美容外科医の仕事はあまり魅力的ではないだろう。何故なら、ゲイ男性は女性よりも、男性と接するほうが好きなはずだから。僕のように男性よりも女性に魅力を感じる通常の男性にとって、常に女性に囲まれた美容外科医の仕事は理想的である。確かに外科医として治療や手術を行う決断力は、男性ホルモンの働きが大切かもしれない。しかし、僕のように必要最小限の男性ホルモン値があれば、美容外科医として何とかやっていけるようだ。
再発作 図書館で調べた文献の中に、この病気は2度目の脳な出血発作を起こすと、その予後は一気に悪くなるとの記載があった。少女に最悪のことが起こり始めていた。少女の母親からの連絡の後、すぐに少女の入院する病院に駆けつけたが、彼女は酸素マスクにつながれベッドに横たわっていた。 “どうしてこんなことが起こるのだろう。彼女は何も悪いことしていないのに!”と思いながら少女に声をかけてみても全く反応しない。そばにいた少女の母親は泣きながら「娘を健康に生んであげられなかった私が悪いのです。」と言った。これが不治の病と厳しい現実との初めての経験だった。“こういった状況の時、どう対応すべきなのか?”僕は返す言葉がなく、途方にくれた。病室にいても重苦しい雰囲気が漂う。絶望感に襲われながら病室を後にした。 その後、僕の学生生活は医師国家試験勉強に追われる忙しい毎日が日々続いた。北海道の中でも旭川に冬が来るのはことのほか早く、10月も下旬になるとコートなしでは寒くて外を歩くことが出来ない。僕はかじかむ手をジーンズのポケットに突っ込みながら、足ばやに図書館に向かった。この時期本州を襲った台風が温帯低気圧に変わり、強い風が木々の紅葉をすっかり吹き飛ばした。その後急に気温が下がり始め、空は鉛色に変わった。間もなく空から白い雪がちらつき始めた。僕は脳外科病棟で出会った病に襲われた美しい少女に憧れを感じていたのだろうか。それからもこの少女のことが頭から離れずにいた。しばらくすると少女の意識は戻った。今度の発作で彼女には手足の麻痺、言語障害が起きた。しかし、命に別状はなく、回復のためのリハビリに取り組んでいた。 少女との再会 僕は少女がどうしているか気になったが、数ヶ月後の迫った医師国家試験の準備で一杯となり、それ以後少女に会いにゆくことはなかった。時は流れ春がきた。僕はやっとの思いで医師国家試験に合格し、医学部を卒業した。しかし、僕は医学部を卒業しても医師として何をすべき悩んでいた。結局、答えの出ないまま、札幌にある北海道大学医学部大学院に進学した。北海道大学医学部は緑に囲まれた自然豊かなキャンパスの中にあった。春、新緑の季節とともに僕の新しい大学院生活が始まった。“あの少女はどうなったのだろう?”。最後に少女に会ってから4ヶ月が経過していた。意を決して少女の入院していた旭川の市中病院に電話をした。僕は電話口で少女の後遺症の回復が思わしくないこと、現在は札幌のリハビリセンターに転院したことを告げられた。そのリハビリセンターは偶然にも北海道大学医学部の裏の試験農場の裏、1キロ先にあった。僕はポプラ並木が立ち並ぶ試験農場を駆け足で通り抜け、リハビリセンターに向かった。息を弾ませながら、リハビリセンター職員に事情を告げると、「しばらくお待ちください。」と言う。 間もなくロビーに少女の母親が現れた。「お久しぶりです。」僕は母親に言った。母親は落ち着いた表情をして「大学卒業したんですね。」と答えた。僕は医師となったこと、現在は大学院に進学したことを告げた。しばらくの沈黙の後、母親は「娘もなんとか頑張っているんです。」と続けた。僕は「どんな感じですか?」と尋ねた。母親は「先生、娘と会いたいですか?」と聞くので、僕はためらわず「はい。」と答えた。リハビリセンター職員の案内でリハビリ室に向かった。僕の胸の鼓動は高鳴った。しかし、そこには別人のようになった少女がいた。脳出血後遺症で彼女の頭の中は脳髄液の流れが遮断され、頭が普通の大きさの2倍ほど腫れ上がる“水頭症”と呼ばれる状態になっていた。彼女の髪は短く刈られ、脳髄液を循環させて“水頭症”を改善するためのシャント手術の傷跡が痛々しく残っていた。肥大した頭の圧迫で少女は目を開けることすら出来なかった。意識レベルは低く、少女は他人を認識出来ないでいた。僕は努めて冷静に振る舞うようにしたが、全く言葉が出ずに呆然となっていた。すると、少女の母親は僕に「久保先生。将来、こういった難病の患者さんを治せる立派お医者さんになってください。」と言った。 リハビリセンターを出て、農業試験場の中を北大に向かってゆっくり歩いた。雲一つない晴天の日だった。春風に気持ちよさそうに揺れるポプラ並木がとても美しく見えた。後ろを振り返ると少女の入院するリハビリセンターがすでに遠くに見えた。少女のことを想うと涙がこみ上げそうになった。だがそれ以上、うしろは振り返えらなかった。それ以来、僕は少女のお母さんが言った“立派な医師になってほしい。”という言葉を忘れられずにいる。

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