GINZA CUVO

2006年7月アーカイブ

なかなか進まない研究 研究はエイズ関連ウイルスが人に感染した時、何故病気を起こすかについて、遺伝子レベルで調べるテーマが与えられた。研究室のボスはアイルランド人で、最初の頃はとやかく言わずに、僕が研究に慣れることを気長に見守ってくれた。アイルランド人はお酒が大好きで、研究帰りにはマンハッタンのアイリッシュバーに立ち寄って、ギネスビールをボスと一緒に飲むのが日課になった。研究は最初の一年はなかなか順調には行かなかった。エイズ関連ウイルスの遺伝子の一部を増殖させて、それをいくつかに細分化して、人の培養細胞に導入してみた。遺伝子のどの部分がエイズのような病気を起こしているのか調べるのだが、そう簡単に答えは出なかった。そもそも遺伝子を細分化し、増幅させるのは至難の業だった。これが出来るようになるのに一年はあっという間にすぎた。ようやく、遺伝子を分離することが出来るようになり、今度はこの遺伝子を実際に細胞に導入することを試みた。これが出来るようになるまでに、さらに半年が経過した。この調子だと、ある程度の結果が出るのに相当の時間がかかることを思うと気が遠くなった。そんなとき、アイルランド人のボスは僕に「決して、パニックを起こしては行けません。まあ、リラックスしなさい。今日はこれくらいにして、ギネスビールを飲みに行きましょう。」と声をかけてくれた。マンハッタンにはものすごい数のアイルランド系アメリカ人が住んでいて、アイリッシュバーのギネスビールは本場の味と変わらないらしく、いつも多くの人で賑わっていた。この時のギネスビールの味が忘れられなく、それから僕はビールが大好きになった。実験の進み具合は今ひとつだったものの、ニューヨークでの生活には一年後にはすっかり慣れた。研究室には他にも日本人留学生がいたため、英語の上達が遅いことが気がかりだったが、特に何不自由なく暮らせた。食事は一人暮らしだったので、気ままに外食で済ませることが多かった。何しろニューヨークは人種のるつぼ、マンハッタン、イーストサイドの2、3番街にはありとあらゆる国の料理店が並んでいた。毎晩、中華、インドカレー、ポーランド料理、韓国焼き肉、アメリカピザを代わる代わる食べていると、飽きずに食事を楽しむことが出来た。値段もせいぜい7ドル(約1,000円)で、お腹いっぱいになった。 道路交通簡易裁判の経験 唯一の贅沢はニューヨークの街を車で乗り回したことだが、ある日、信号のある交差点で曲がろうとすると、警察官に呼び止められた。何事だろうと思って、車の窓を開けると、警察官が「君は今、信号無視をしましたね。」と言った。僕は「そんなはずはないと思うんですけど。」と戸惑いながら答えた。“ついに外国の警察官にまで、捕まる日が来たのか。”と内心がっかりした。その警察官は「あなたが罪を認めるか、認めないかはあなた次第です。もし、不服であれば、一ヶ月以内に控訴してください。」と言って去っていった。違反キッブを見ると罰金は1万円、貧乏大学院生の僕には厳しい出費だった。黄色信号の時に交差点で右に曲がっただけで、僕としてはどうしても納得が行かなかった。僕は控訴することにした。 控訴までの期間は一ヶ月、知人の弁護士に相談もしてみたが、控訴して認められるのはまず無理と言われた。でも、どうしてもあきらめることが出来ず、やるだけやってみることにした。控訴が行われた簡易交通裁判所はマンハッタンの北側、ハーレムの近くにあった。僕の順番がくると、女性の裁判官の前に立つと、隣には僕に違反切符を渡した白人の警察官が立っていた。ちらっとこの警察官の顔を見るのが精一杯だった。裁判官が「何か申し立てがありますか?」と僕に尋ねてきた。僕はつたない英語で「私はあくまで黄色信号に変わったときに右折しましたが、信号無視はしていません。」と答えた。裁判官はすかさず「右折をした時、信号が赤に変わったのは見えましたか?」とじっと僕の目を見て尋ねた。僕は蛇に睨まれたカエルのようにこわばり、「はい。赤信号が見えたかもしれません。」と反射的に答えた。勝負はその時点で決まった。裁判官は「あなたは違反をしました。」と僕に判決を下した。隣の警察官は最後まで何も言わずに立っているだけだった。たった1、2分の出来事であまりにもあっけなかった。悔しかったがどうすることも出来なかった。違反金を払うしかないと思って呆然としていると、僕の後に裁判を終えて出てきた若い白人の青年が喜びながら出てきた。僕が「判決はどうだったの?」と尋ねると「俺は無罪になったんだ。あんなのは運がよければ無罪、運が悪ければ有罪なだけさ。」と言った。簡易裁判所の掲示板を見ると、“判決に不服のある方はさらに上告できます。但し、上告のための料金は2万円です。”と書かれていた。僕はこの時点であきらめることにした。今思うとこのようないやな出来事も貴重な経験だった。実際にアメリカに住むと、旅行では経験できないその国の慣習を知ることが出来る。このような経験を通して、僕は日本以外でも通用する感性をつかんだ。
突然決まったアメリカ留学 漠然と進学した大学院生活の中で、僕が唯一、はっきりと望んでいたのがアメリカへの留学だった。僕はその意思を大学院の教授に入学前にはっきりと、「出来れば、アメリカに留学したいのですが、可能でしょうか?」と伝えた。教授は「留学はとても良い経験になります。そのチャンスは十分にあります。」と答えてた。そもそもこの一言があって、僕は大学院進学を決めていた。留学のチャンスは大学院進学から1年も経たないうちに訪れた。9月のある日の午後、僕は教授室に呼ばれ、教授から「君の望んでいた米国留学に言ってきなさい。時期は11月からですから、すぐにその準備にとりかかりなさい。」と伝えられた。大学院生活にも慣れ、そろそろ何らかの研究準備の時期、教授はなんと僕に、研究の一からアメリカでやらせようと考えたのだ。その頃の僕は大学時代からの遊び癖がまだ抜けずにいたので、教授はアメリカで僕の性根を入れ替えさせようとしたのだ。僕は望んでいた海外留学がすでに実現されることに心が躍ったが、その反面「このまま留学して、本当に大丈夫なのだろうか?」と一抹の不安を感じた。 留学ビザの取得等の準備をしていると、2ヶ月はあっという間に経過して、日本を旅立つ日がやってきた。場所はニューヨーク・マンハッタン、学生時代に旅行で訪れたことはあったものの、誰一人として知人はいない街だ。短期間の大学院生活で築いた遊び仲間等にも別れを告げると、教授は僕に「じゃあ、頑張って研究をしてきてください。実際の留学はその華やかな印象ほど楽なものではありません。最初は孤独で辛いかもしれませんが、それが良い経験となります。」と別れ際に本音を語った。僕は教授に「どれくらいの期間、留学することになりますか?」と尋ねた。教授は「君の場合、一からのスタートだから最低でも2年はかかるでしょう。」と言い、僕は内心「思ったより長い留学になる。これはただ事じゃすまない。」と武者震いをした。 アメリカ流食生活 生活準備から始める必要があったので、ニューヨーク郊外の街で、1週間程日系アメリカ人のお宅でホームステイをすることになった。銀行口座を開設したり、アメリカの運転免許を取得したりと、その準備はなかなか骨が折れる。それにしてもこの家庭での食事のボリュームには驚かされた。どちらかと言うと、大食いの僕でも、全部平らげるのは大変だった。どうやらアメリカ人は大量にものを食べる習慣がある。つまり、この日系家族では子供を育てるにあたって、食事の量が日本人の量ではなく、米国人サイズになっていたのだろう。アメリカ人は国民の30%以上が肥満となっているが、この食べ物の量をみると、それも当然と言える。人の胃は伸びたり縮んだりする性質がある。食べ物の量を少しづつ増やしてゆくと、すぐに胃はその量に合わせて伸びるので、食べ物の量が増えても満腹感を感じなくなる。つまり、人の体は食べる量を増やしても、満足するのはほんの少しの間で、さらに多くの量を食べたくなるように出来ている。その結果が肥満という人間の健康を脅かす大問題となっている。研究室のカフェテリアでも然りだった。フライドチキンのように、味の均一な大量の食べ物がアメリカで一般的で、あまり健康的とは言えなかった。僕は毎日シリアルのような繊維の多いものを食べるように心がけていた事、留学時代は月10万円くらいの生活費しか無かったので、贅沢は出来ず、肥満に陥る事は最後まで無かった。 ロングアイランドへの自動車通勤 研究はエイズウイルス関連の実験を行う事となった。今から10年前のアメリカではエイズ患者がどんどん増え、それをいかに食い止めるかで医学会が熱気を帯びていたことを覚えている。僕は最初の半年間、マンハッタンから車で30分くらいの距離にある、ロングアイランドのある総合病院に付属する研究室に通った。中古自動車を手に入れてから、マンハッタンから毎日研究室まで通う旅は朝の通勤は快適だった。車の運転が苦手でない僕はアメリカ人たちに負けない、過激な運転で3車線をかき分けて飛ばした。マンハッタンを抜けてクイーンズ地区に入ると毎日車の速度を緩めた。クイーンズ地区は貧困階級が住む地域なので、地区の税収が悪く道路の補修が出来ない。そのため、道路がでこぼこで車の速度を上げられない。この地区に入ると、何故か煙りを上げてエンストをしている車、パンクをしている車などを当たり前のように垣間みた。ある時などは炎上している車を見かけたが、このような光景があまりにも一般的なので、驚きすらしなくなっていた。マンハッタンから距離が離れてゆくに従って、ロングアイランドには環境の良い高級住宅街が広がり始める。この辺りに住む人たちは車や電車で朝早くからマンハッタンの銀行や商社に働きにでる。僕はマンハッタンからロングアイランドに逆行するように勤務していたので、渋滞に巻き込まれず、すいすい走る事が出来た。しかし帰り道は地獄だった。マンハッタンの摩天楼が見え始めると高速道路はどんどん混みだす。マンハッタンへの入り口、イーストリバーの上にかかるクイーンズボロー橋を通って、家路に着くの毎日だったが、渋滞はこの橋の上でピークに達した。毎日3~40分、この橋の上でノロノロ運転を強いられたのだ。季節によって彩りを変えるマンハッタンの景色、ラジオから流れる当時のヒット曲が、この渋滞によるイライラを和らげてくれてたものの、マンハッタンのアパートに着くのは毎日7時過ぎとなっていた。
大学院生のアルバイト 医師国家試験に合格した後、将来何をしてよいかはっきり決める事の出来なかった僕は北大医学部大学院へと進学した。大学院は4年間のコースだが、その間に研究を行い、博士号を得るのが目的だった。大学院には博士号取得を目的に他科の先輩医師たちもたくさん集まっていた。新米の僕は医師資格を取得したものの、臨床医としては当分の間、何の経験を積めない立場にあった。しかし、大学院は授業料がかかるし、医学部をすでに卒業しているので、いつまでも親のすねをかじるわけにはいかなかった。ある程度の生活費を稼ぐために、何らかのアルバイトをする必要があった。若手医師としてのアルバイトとしての登竜門は病院当直だった。有床病院では法律で24時間医師が常在しなければいけないため、常勤医が帰る夕刻6時頃かあ翌朝まで当直する医師が必要である。そのため、研究に忙しい大学院生医師などがこのような仕事を生活費を稼ぐために行うのが常だった。 大学院生活も数ヶ月経過した頃、面倒を見てくれていた先輩から「そろそろ、当直でも行ってみないか?」と声がかかった。僕は「行きたいのですが、何も出来ないんですけど、大丈夫でしょうか?」と答えた。先輩は「大丈夫だよ。まず何も起こらない寝に行くだけの病院だから。何かあったら、僕に連絡してくれたら、対処法を教えてあげるよ。但し、発熱や高血圧、腹痛の対処法は勉強しておきなさい。」と言われた。僕は北大から車で20分くらいの札幌市郊外の閑静な住宅地にある病院に当直に向かった。この病院は老人病院で、数十人のご老人たちが入院していた。もうすでに常勤医師は帰っており、当直の看護婦さんが数人、ナースステーションで申し送りをしていた。僕は緊張しながら「当直に来ました。宜しくお願いします。」と言うと、担当の看護婦さんは「今日は特に不安定な患者さんはいません。」と答えた。僕はほっとして当直室に入って、何も起こらない事を祈った。当直室の中には毎日の記録があり、過去一週間のの夜の出来事を見ると、数人が発熱や高血圧となっており、当直医が対処していることがわかった。僕は「なるほど、先輩のアドバイスは的確だ。」と思った。その夜は何事もなく終わり、初めての当直を終えた安堵感と臨床医として初めて行った仕事の達成感に胸が弾んだ。 ご臨終への心構え 昼間は研究、夜は週1~2回の当直をこなしていると、それなりに老人の夜の問題に対応できるようになった。次のステップはさらに大規模な老人病院で当直を行うことだった。このような病院には100人以上の入院患者さんがおり、夜間でも多くの問題が起こる。この病院で当直する一番の懸念事項は患者さんが亡くなるときの看取り方だった。これも先輩から次のように教わった。「いいかい、久保君。患者さんが亡くなるときは呼吸と、心臓の力が弱くなる。それをモニターで確認できたら、すぐに家族を呼びなさい。延命は望まない家族が多いけれど、それを望むかどうか電話で確認しなさい。望まない場合はそのままにしておきなさい。心臓、呼吸が停止した場合、家族がいらっしゃる場合、念のために心臓マッサージと場合によってはカウンターショック(止まった心臓を動かす電気ショック)を数回行いなさい。最終的には瞳孔散大、心肺停止、脈が触れない事を確認してから、冷静にご臨終ですと伝えてください。」僕は必死にメモを取りながら、本当に自分が死を看取れるのか不安だった。僕が当直病院に出発しようとすると、先輩は僕に向かって「もう一つだけ伝えなければならない事があります。心臓が止まった事を確認したら、すぐに心電図モニターを外した方が無難です。心臓は死亡しても、しばらくたつと動き出すことがあるからね。それを家族が見ると、まだ生きていると勘違いされる可能性がありますよ。」と言った。僕は内心「なるほど、遺族の前でご臨終を告げた後に、心臓がまだ動いていたら、“あれっ”と思われても仕方がないだろうな。」と、これこし、貴重なアドバイスだと感じた。 思いもよらない症状 100人以上の入院患者がいる病院での夜の当直は不安だった。発熱、腹痛などの一般的症状はすでに対処出来るようになっていたが、それ以外にも何か突拍子もない事が起こる可能性も捨てられなかった。当直日誌に目を通すと、昨夜には患者さんの一人が亡くなっていた。「今晩は何も起こらないでくれよ。」と祈りながら、当直室のベッドで横になってうとうとしていると、電話が鳴った。僕は「もしかして、ご臨終か。ついにその時がやってきたか。」とどきどきしながら電話に出た。看護婦さんは「先生、患者さんの‘あご’がはずれたみたいで、口が開いたままです。すぐに来てください。」と僕に伝えた。僕は患者さんのご臨終のことばかり考えていたので、拍子抜けしたのと同時に、どうしてよいかわからず、途方に暮れた。時間はすでに夜中で、先輩医師たちに電話するのも気が引けたが、外科系の先輩医師たちに電話をかけまくった。運良く整形外科の先輩医師が電話に出てくれた。先輩医師は「あごの脱臼は下あごが前にでているのだから、両手で下あごをしっかり持って、まずは下に引っ張って、次に後ろに押せばたいていの場合、元に戻るからやってみなさい。」との助言を受けた。その患者さんは80歳過ぎのおばあちゃんで、夜中に何か食べようと、大きな口をあけた途端、口が閉まらなくなってしまったらしい。僕は先輩医師の言われた通りの手技を何度か試みると、“かちっ”という音とともに、おばあちゃんは口を元通りに閉めることが出来るようになった。おばあちゃんはきょとんとした顔をしながら、口を動かせるようになって喜んでいた。僕はこの時から、劇的な変化をもたらす興味深い外科医学に一気に興味を持ち始めた。ご臨終を経験したのは当直を始めてから一年近くが経ってからだった。それはある夜突然経験したのだが、立て続けに二人のご臨終を看取る事になった。大学院での研究を重ねながら、先輩医師たちの助けによって、臨床医の仕事を当直から学び、僕は少しずつながら臨床医としても成長していった。

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