GINZA CUVO

2006年3月アーカイブ

結婚の変遷 この半世紀の間に日本人の価値観は随分と変わったと思う。これほど変化にうまく対応できる民族も少ないのではないか?日本が戦後、これほどまで成長を遂げることが出来たのも、戦後の急速な変化に対応出来たからだと言われている。大正元年生まれの僕の祖母が結婚した時は、家族間で決められた予定結婚で、相手の顔も見ず、身一つで祖父のもとに嫁いだ。それは今から60年くらい前の話だが、そんな結婚が当たり前だった。僕の親の世代、今から40年前はそこまでひどくはないが、結婚の大方がお見合い結婚だ。それからの変化がもの凄い。情報産業が発達するに従って、結婚に対する価値観もどんどん変化し、今や結婚そのものの価値が問われている。 文化の違いによって、結婚の形もさまざまだ。アフリカや中東諸国では一夫多妻性が当たり前、先進国になるに従って、一夫一妻制となる。フランスなどの恋愛先進国では一年ごとに上手く行くかどうかの査定をする契約結婚や、戸籍を入れずにパートナーとして暮らすことも一般的になってきた。結婚に関する歴史的背景はよくわからないが、結婚すると法律的に縛られることからわかるように、人間が決めたものだ。このようなことを書くと、人種差別的と批難されるかもしれないが、米国の黒人家庭にはシングル・マザーが多い。貧困等の社会的問題点がその主な原因なのであろうが、黒人男性は女性の間を次から次へと渡り歩いていきやすいらしい。そういう男性の勝手な行動を制限するのも結婚の大切な役割なのだ。 多夫一妻制 しかし、動物学的に見ると一夫多妻どころか、多夫一妻制のほうが一般的らしい。これは英国科学雑誌“ネーチャー”に記載されていたので正しいと思う。小鳥を例にとってみるとわかりやすい。みごもって巣にじっとしている雌鳥は自分でえさを採ることすらできない。えさは雄鳥が運ぶのだが、もし一夫一妻だとしたら、子を育てる雌鳥にとって危険極まりない。自然には外敵がいっぱいで、もしこのえさを運ぶ雄鳥が車にでもぶつかって死んだら、雌鳥とひな鳥もろとも、えさが食べられず全滅してしまう。このような危機に備えてこの雌鳥にくっつく雄鳥はたくさんいた方が安全だ。小鳥の場合、雌はたくさんの雄と交尾するらしい。なぜなら、雌と交尾した全ての雄鳥たちが自分の子供だと思ってえさを運ぶので、雌鳥にとって一匹の雄鳥とつがいになるより格段に安全となる。太古の昔、人間も小鳥と同様な状況であった。“遺伝的には男性よりむしろ女性のほうが一時に複数の男性と関係を持ちやすい。”と言うのがこの科学雑誌の学説だ。この見解は僕のような昭和40年代の男性には意外な事実で、驚きを隠せない。我々おじさん世代の男性は、女性に対して汚れなき生き物みたいなイメージがあった。女性は男性より一歩下がって、男性を引き立てる立場にあるという固定観念がついこの前まで一般的だった。 女性に嫌われないために 女性が男性を動物的にその価値を判断するのも、この遺伝子が強いからと言える。野球選手がやたらモテるのも、男としての肉体的能力(大昔の狩猟能力)とお金を稼ぐ能力(現代の狩猟能力)両方を持ち合わせる、現代社会におけるたぐいまれなる存在だからだ。女性は本能的にその辺りを嗅ぎ分ける。では、プロスポーツ選手やIT起業家などの限られたモテ男たち以外の普通の男性たち対する女性の扱いはどうだろうか?女性は相手の男性に、ある程度の経済的能力(現代の狩猟能力)がなければ、結婚の対象としては見向きもしないだろう。ましてや男性が“秋葉系”のようなオタク化すると、軽蔑の対象にするほど女性は現実的で厳しい。一見、男性にとって不平等のように思える女性の男性に対する評価は、女性たちが生き残るために過去に培った遺伝子を考慮に入れると仕方のないことだ。 この女性特有の遺伝子のことを思うと、美容外科医として女性を見ていても納得のゆくことが多い。既婚の女性がどうしてエステや美容外科に来て、美しさを維持するのか?答えは簡単、雌鳥の遺伝子が作用している。いざというときに、異性からアプローチされるチャンスを失わないためには、つねに魅力的でいなければいけない。例えば、ある夫婦の日曜、旦那の友人が突然遊びにきたとする。日曜の午後、妻は全くお化粧をしていないでのんびりしていた。旦那は妻にすぐにお茶を出すように言っても妻は「ちょっと待ってて、お化粧をしてくるから。」とすぐに旦那の友達に会いたがらない。旦那は腑に落ちない。「もう、結婚しているんだし、何も俺の友達の前でおめかししなくたっていいじゃないか。」と内心思っている。女性は本能的に転んでもただで起きないように遺伝子で組み込まれている。 僕のクリニックには1割の男性客と9割の女性客が来る。ほとんどの男性はホームページをしっかり読んでいて、同じことを説明しようとすると、「それはもうわかっています。治療に移って結構です。」と繰り返しを許さない。男性のお客さんは、僕を含めて、クリニックがどんな雰囲気なのか確認しに来ているに過ぎない。それに対して女性はホームページに書いてあることでも、何度でも繰り返して質問してくる。質問に答える僕の話し方、態度などを見て、この人間が信頼するに値するかを見極められていると感じる。このように異性を観察するという点で、女性は男性よりずっと感が良い。だから、女性を相手に仕事をする場合、男性は誠心誠意を尽くさなければすぐに見破られてしまう。女性にいかに嫌われないで生きてゆくか、これは美容外科医だけではなく、全ての男性に与えられた最も大切なテーマの一つである気がしてならない。
アウトバーン ヨーロッパの昼は長い。僕は朝5時に起きると、プジョーに乗り込んでイタリアまで行くことにした。レンタカーは一週間の予定で借りている。3日後にスイスのチューリッヒ空港に戻れば良い。何しろ一人旅だったので、どこにどのように向かってもかまわない。ドイツ国内はアウトバーン、イタリアにはエストラーダと呼ばれる高速道路が完備されているので、平均時速100キロで走ればどれくらい走れるか予想することが出来た。僕はとりあえず、水の都ベネチアまで走ることにした。ベネチアまでは車で6時間の距離、イタリアアルプス、サンモリッツを抜けて一気に南下することにした。 それにしても、アウトバーンでの走りは凄まじかった。フランス車のプジョーは、フランスの石畳の上で快適に走るように設計されているが、アウトバーンでは話にならない。かっ飛ばしても割と平気な僕は、プジョーのアクセルを最後まで踏みつけて180キロで走った。これくらいのスピードで走っていれば大丈夫と、追い越し車線を走っていると、うしろから猛然とBMWがやってきてパッシングライトを照らされた。慌ててよけると、あっという間に追い抜かれた。つまり、アウトバーンでは180キロで走っていてもまだ遅く、そのくらいのスピードからでも一気に追い抜きをかけられる馬力が必要なのだ。それが可能なのは、ベンツ、ポルシェ、BMWくらいしかない。日本では高級車とされるこれらの車はどうして高いかと言えば、アウトバーンでしっかり走れる性能を持っているからだ。残念ながら、日本でベンツやポルシェを思う存分、走らせるような場所はなく、宝の持ち腐れ状態になっていると言わざるを得ない。 サンモリッツ近くになると標高が高く、気温がぐっと下がってきた。アルプス山脈をおりてくると、イタリアはもうすぐ。ドイツのアウトバーンはとても理路整然としていてわかりやすかったのに、イタリアに入ったとたん、道案内の看板がよくわからない。この辺はアバウトな国民性なのか、早速道に迷ってしまった。夕方には水の都、ベネチアに到着、その夜は島にあるペンションを探して泊まった。 思わぬハプニング この一人旅はとにかく、目的地に到達することが目標なので、ベネチアではたいした観光すらしなかった。水の上をゆったりとゆく、ベネチア名物のゴンドラを横目に見ながら僕は次に向かう先を考えた。今はまだ朝の8時過ぎ、今から車を飛ばせば、午後にはカンヌやモナコまでたどり着くことが出来る。泊まる場所はついた先で考えることにして、ベネチアを後にした。トリノを通って、一気に地中海まで抜けた。そこはジェノバだったが、地中海を一望できるこの街で休憩することにした。長時間車を運転すると、トイレと食事をとるために運転を休む必要がある。しかし、もう昼過ぎ、なんとしてもフランスの名所、モナコに日の暮れる前にたどり着くには、すぐに出発しなければならない。小さな商店でピザを買ってそのまま車に持ち込んだ。あとから気がついたのだが、ピザを暖めてもらうのを忘れた。「冷えたピザは不味いよ、確か。」と思いつつも、お腹がすいていたので、渋々食べるとこれが意外にもおいしく、「さすがイタリア、冷えてもうまいピザがあるんだ!」と感動した。 午後三時にはカンヌに到着した。さらに西にはマルセイユもあるが、今回はここでユーターンすることにした。これでほぼ目的は達成したことになる。とりあえずほっとして、カンヌのビーチでゆっくり休むことにした。7月の真っ盛り、ビーチにはバカンス最中の多くの人たちで賑わっていた。車をビーチ近くの屋内駐車場に止め、水着に着替えた。パスポート、財布などの貴重品をシートの裏に隠して、海水浴を楽しむことにした。何しろ、一人なので海水浴に荷物を持ち歩くわけにはいかない。身につけているのは車の鍵とサングラスだけだ。日本でもよくやっていたのだが、海に着くとビーチサンダルの下に鍵を隠して、泳ぎに出た。海岸から500メートルくらい泳いだところで、何かいやな予感がした。「ちょっと待てよ、もし車の鍵をとられたらとってもまずい!」と。一目散に岸に戻った。悪い予感は的中した。サンダルと一緒に置いてあったサングラスと鍵はなくなっていた。「これはまずいことになった。」と一瞬、顔面から血の気が引いた。「車までとられていたらどうしよう!」水着のまま必死で車に向かった。不幸中の幸いにも、犯人は車まで同定するこができなかったらしく、車は盗まれていなかった。それにしても鍵はなく、車の中にある洋服に着替えることも出来ず、途方に暮れた。鍵がなければスイスに戻ることも出来ないし、フランスでは英語すら通じないと思うと、絶望感に襲われた。どうすることも出来ず、駐車場とビーチのあたりをうろうろしていると、中学生くらいの子供が近づいてきて、フランス語で話しかけてきた。するともう一人の少年が近づき、なんと僕に鍵を渡したのだ。どうでも良かったのだが、「サングラスは?」と言うと、首を横に振った。多分、彼らは海岸に来た日本人の僕を見て、格好のターゲットと思ったのだろう。僕が泳ぎにいったとたん、サングラス、あわよくば車の中の財布をとろうと思ったのかもしれない。それにしても、鍵を返してくれたのはラッキーだった。もし、返してもらえなければ、とんでもない羽目に会うところだった。鍵を返してくれた少年たちにむしろ、感謝しても良いぐらいだった。 アドレナリンがみなぎる旅行とは 「もっと用心しなければ。」と思いつつ、すかさず着替えてモナコ、モンテカルロへと向かった。モナコに到着すると、時刻は7時を回っていた。サマータイム制のおかげで、この時間でも十分に観光することが出来る。すっかりお腹がすいたので、一人で屋外レストランに駆け込んだ。お腹がいっぱいになったとたん、これからどうするか考えた。このまま北上してフランス周りでチューリッヒまで戻るか、それとももう一度イタリアまで戻るか。当初の予定ではフレンチ・アルプスからリオンを抜けて戻ろうかと思ったが、カンヌで起きたアクシデントですっかり弱気になり、来た道を引き返し、ミラノまで行くことにした。早めに戻った方が良いと思い、モナコで食事をした後、一気にミラノまで引き返した。このドライブはとてつもなく疲れた。夜の地中海沿いの高速道路は外灯すらなく、長距離トラックを次から次への追い越しながら夜中にかけてひたすら運転したが、居眠り運転寸前だった。ミラノについた頃は夜中の2時くらい、近くのドライブインを見つけて眠りに落ちた。 翌朝ミラノ市内に車で侵入してみたのだが、放射状に道路が走るこの街を車で走るのはとても骨が折れた。ぐるぐる回りながら最終的にたどり着いたのが、“ドーメ”と言われるミラノの中心だった。目の前に“プラダ”があったので入ってみたが、ここが“プラダ”本店であることに気がついた。しばらく観光をした後、この街から抜け出すことにした。それにしても、ミラノの街は道路がデコボコで首が痛くなりそうだった。道も複雑でナビでもなければ、とても目的地に行けるとは思えない。ただ、街から離れるのは意外にも簡単だ。環状道路をぐるぐる回りながら、外へ外へと軌道を外れてゆけば良い。気がついたときには北イタリアへ抜ける高速道路にたどり着いていた。 イタリア、オーストリア、ルクセンブルグからスイスに入ってチューリッヒに着いたときは無事に旅を終えることが出来、一安心。スイスは英語が通じるので便利と思いきや、この国だけユーロが使えない。スイスは独立国なので、EUに加盟しておらず、スイス・フランに両替が必要だ。チューリッヒに一泊してこの旅行を終えた。プジョーでの走行距離は1500キロ以上に達していた。観光するだけであれば、飛行機や電車で行く方が楽で良い。僕の旅はヨーロッパを肌で感じるものにしたかったので、このような過激なドライブを敢行した。アウトバーンの途中には車が木っ端みじんに大破する事故も垣間みた。あれだけのスピードを出して事故を起こせば当然だろう。しかし、自由はリスクが伴って初めて謳歌できるはずで、リスクなしに本当の自由を得ることができない。観光旅行にバスで行けば、僕はすぐに寝てしまう。僕の体はアドレナリンがみなぎる状態でなければ物事を体感できなくなっているが、その分“第六感”は冴えるようになった。
湖に囲まれたリンダウ 誰一人知り合いはいなかった。マング教授に挨拶をしたものの、忙しそうで僕の相手どころではない。勉強が終わる午後7時頃はまだ明るかった。勉強の後は何をするか迷ったが、何しろリンダウは湖に囲まれた、古くからの城下町で至る所にオープン・カフェが存在した。僕はビールが好きなので、このカフェでドイツのソーセージでもかじりながら、ビールを飲ことに決めた。それにしても、学会に来てから全く体を動かしていない。体を動かさなければ、ビールも美味しくないので、ジョギングでもしようかと思ったが、南ドイツの夏はやたら暑くて、とても走る気にはなれない。よく周りを見るとあたりは一面の湖で、その中で何人もの人が泳いでいる。「そうだ、泳げばいいんだよ!」と思って、大好きな水泳をすることにした。 結局、毎日手術研修の後は湖での水泳を日課にすることにした。リンダウは湖に突き出た半島を一周すると、丁度1.5キロくらいの距離がある。3、4日泳いでいるうちに、ついに僕はこの半島を一週泳ぎきった。ボーデン湖の水は思いがけずきれいで、とても気持ちがよかった。その後のビールは格別美味しかった。それにしても、学会に一人でやってくると、話し相手がいないのが辛い。一人ごとをつぶやいていても怪しいし途方に暮れた。小さな民宿のようなホテルに泊まったのだが、ドイツ語以外の言葉を話す外国人は珍しいらしく、サンキューくらいしか通じない。「まあ、一週間くらい辛抱するか。」と思って、ビールを飲み干しながらやり過ごすことに決めた。 ドイツで働く東洋人医師 このクリニックでの研修は3日で終え、その後はリンダウの街で美容外科学会が予定されていたので、この学会に参加した。学会はヨーロッパならではの雰囲気を味わえることが出来たとしか言えない。ドイツ語の壁があり、スライドを見る以外は全くわからない。仕方がないので、展示会場でうろうろしていると一人の東洋人が話しかけてきた。学会場に東洋人はほとんど居なかったので、珍しく思って話しかけてきたのだろう。彼は英語が話せたので、僕はほっとした。彼が何をしているのか聞いてみると、ドイツで開業している美容外科医師だった。出身はインドネシアで10年前からこちらで医師として働いているらしい。「ドイツで開業するインドネシア人?」と思って、さらに突っ込んだことを聞いてみた。この医師はインドネシアでは貧しい家庭に生まれたらしいのだが、どうしても医師になりたかった。しかし、米国に留学しようとしても、留学費用がない。そこで、成績優秀であれば無料で留学出来る国を探したところ、ドイツを見つけたとのこと。僕は彼にどうやって、ドイツ語を学んだのか尋ねてみた。彼は「無料で留学出来る場所がドイツしかなかったので、留学試験に合格するために、必死でドイツ語を勉強した。」と答えた。 僕は彼の努力に感心した。英語でさえ、身につけるのは相当骨が折れるのに、無料留学のためにドイツ語を習得してしまうガッツは並大抵のものでない。でも、どうしてもやろうと思って出来ないことはない。彼は、立派にドイツで美容外科医として成功しているのだ。彼は成功の証ともいえるドイツのスポーツカー、ポルシェを持っており、学会を抜け出して僕をドライブに連れて行ってくれた。ドイツの美容外科事情など、興味深い話も聞くことが出来た。同じ東洋人同士は西欧社会に出ると、同じマイノリティとしての固い結束力があって心強い。世界には彼のように、東洋人としてのハンデを乗り越えて一生懸命生きている人たちがたくさんいる。学会での新しい情報も大切だが、このようなガッツのある人間にあって、よい影響を受けるのも学会に参加する魅力の一つとなる。学会も無事終わり、帰国まであと3日。僕は行ける範囲で、プジョーでのヨーロッパ一人旅に出た。

ロス・アンジエルスを舞台にした映画“クラッシュ” 本年度のアカデミー賞は“クラッシュ”が受賞した。滑稽だったのは、劇場での放映がいったん打ち切りになっていたのに、先日この映画がアカデミー賞作品賞を受賞したとたん、また映画館で放映されるようになったことだ。日本では興行的に成功しなかったので、早めに打ち切りになっていたのだろう。この映画が公開される宣伝を見たとき、出演しているマット・ディロンのことが気になった。彼はほぼ僕と同じ歳で、20年くらい前にフランシスフォード・コッポラ監督の青春映画“アウトサイダー”でいい演技をしていた。それからマット・ディロンは影を潜めていたのだが、この映画でまだ健在であることを知った。 早めに仕事が終わったので、六本木ヒルズにあるヴァージン・シネマに寄って、この映画を見ることにした。休日前であったにもかかわらず、午後10時近くの映画館の人影は意外にもまばらだった。特にあらすじがあるわけでもなく、ロサンジェルスを舞台にしたこの映画は、異なった人種間の人間模様を描いて淡々と進んだ。これらの人々が偶然にも、いくつかの状況で重なり合い、一つの物語になるという展開を持つ映画だ。ハッピーエンドで終わるコメディ・タッチのイギリス恋愛映画の“ラブ・アクチュアリー”のシリアス・バージョンといった感じだ。 アメリカの中でロス・アンジェルスは良い意味でも悪い意味でも最もアメリカ的だ。この街は温暖な気候のため、さまざまな土地から人が流れてきやすい。メキシコ、南米、アフリカ、中国などから不法入国者はあとをたたない。当然これらの人々は貧しく、自暴自棄となって犯罪や麻薬に手を染める人間も少なくない。本来であれば、フロンティア精神あふれるアメリカ人にとって、理想の土地であるロスは米国で最も治安の悪い場所の一つに陥ってた。貧困の中で人々は互いに対立しやすくなるが、“人種のるつぼ”と言われるアメリカの中で、ロスは人種差別があからさまになりやすい。“クラッシュ”は交通事故に絡んだ人種差別問題を発端に、銃社会、貧困、家族関係など、現在アメリカの問題点を浮き彫りにしてゆく。 街に見かける人種差別の実態 僕は大学院生時代の3年間をニューヨークで過ごしただけに、これらの問題は他人事とは思えない。東洋人としてのマイノリティー、大学院生というどちらかと言えば低所得者の立場にいた。ある休日、香港人の友人と昼食に行く時、僕がジーンズにT―シャツで現れると、彼は僕に「もう少し、まともな装いをしてこなきゃ、駄目だよ。」と指摘された。僕はすかさず、「ちょっと、待った。だって、ピザを食べに行くって言ったじゃない?あそこじゃみんなジーンズ姿で食べてるよ。」と切り返した。友人は「あの店をよく見てごらん、ジーンズ姿でいられるのは白人たちだけだよ。僕たちが同じ格好をしていたら、いやがられるんだよ!」と答えた。僕は思わず「どうして?」と訪ねた。友人は「僕たち東洋人が白人に受け入れられるには、上品な格好をしてお金があるということを示す必要があるからさ。」と言った。簡単に言うと、僕たち東洋人がジーンズにT-シャツだと、中国などから不法入国した人たちと区別がつかないというのだ。まさかと思ったが、これがアメリカの人種差別の現実だ。 マンハッタンの街角を歩いていると、窓の外から内装がとても上品な感じのレストランがある。もう少し深く奥を覗き込んでみると、店内は見事に白人だけだ。僕がよく通っていた中華料理、インド料理の店にはあらゆる人種が集まっていたのに。何故だろうと思って、店の外に掲げてあるメニュー表を見て納得がいった。食事の値段が通常の店より一桁高いのだ。ニューヨークではWASP(White, Anglo-Saxon, Protestant)つまり、白人でアングロサクソン系(イギリス、ドイツ系)、そして宗教がプロテスタントの人たちが裕福になるように社会が形成されている。このレストランの料金設定は彼らWASP用に設定されていて、裕福な白人のみが利用できるように仕掛けてあるのだ。同じ白人でもアイルランド系のように、宗教がカトリック系であると、警察官や消防士のようにブルーワーカーとなる。 僕の経験した人種差別 僕が通っていたロックフェラー大学はマンハッタンのアッパー・イースト(高級地域)に位置していた。大学から歩いて数分の場所に大学で働く職員のためのマンションがあり、僕もそこに住んでいた。住人の多くは研究者や医師たちとのその家族で、これらの富裕層の住むマンションにたまたま僕のような薄給の大学院生が入り込んだ形となった。このマンションのそれぞれの出口には防犯上の理由で、ガードマンたちが24時間駐在していた。ある日、僕はT-シャツにジーンズ姿で、マウンテンバイクに乗ってセントラルパークまで行った。いつものように帰りがけに自転車を抱えて、マンションに入ろうとすると見慣れないガードマンが僕に「お前はそこから入るんじゃない。」と呼び止めた。彼は僕のことを出前を運ぶ中国系使用人と勘違いしたらしい。(僕のマンションには使用人たちの別の入り口があった。)僕はすかさず大学院の身分証明書を見せて、僕がこのマンションの住人であることを訴えると、ようやくマンションに入れてもらうことが出来た。このとき香港の友人が言う、「服装にも気をつけなければ、差別の対象になりかねない。」という意味がその時わかった。 “クラッシュ”がアカデミー賞作品賞を含め、3部門で受賞したのは、映画の中で描かれたアメリカの問題点が多くの人に共感されたからだろう。マット・ディロンは過去のアイドル的な印象からは脱皮して、難しい役をこなしていた。この映画は人種差別の少ない日本で暮らす僕たちにはわからないアメリカ社会の厳しい現実を示す。残念ながら、そこには解決の糸口さえなく、絶望感が漂う。ただ、映画のクライマックスでロスの街には珍しく舞い落ちる雪はとても美しく、厳しい現実の中で生き続ける人々の気持ちに、ほんの少しでも安らぎを与える気がした。
ワーク・アウトは世界の勝ち組の常識 今回、僕のクリニックにやってきたのはウイリアムの友人、香港人のアルヴィンだ。彼の美意識の高さはウイリアムに匹敵する。ブルースリーを彷彿させる面持ちで、外科的、内科的アンチエイジングは全て行っている。その中で、最も目を見張るのは、長年ジムで鍛えられた肉体だ。過去20年間、週3回、パーソナル・トレイナーをつけてトレーニングしているのだ。45歳なのに筋骨隆々としているのはこのトレーニングの賜物だ。 何故か日本人は世界的に見てあまり体を鍛えようとしない民族だ。アメリカ、ヨーロッパでは、筋トレは“ワーク・アウト”と言って、勝ち組の人間たちは当たり前のように行っている。そういう僕もつい最近まで、筋トレは全く行っていなかった。「ウエイトやマシンを使ってまで、体を鍛えなくたっていいのではないか?」とずっと思っていたからだ。日本人の場合、何故か水泳やジョギングなどの有酸素運動に力を入れたがる。僕も有酸素運動さえやってれば良いという固定観念に縛り続けられてきた。ところが、ワーク・アウトを自分たちの習慣にしているノーマンやウイリアムたちから何度も「どうして、ワーク・アウトしないのか?お前の体は鉛筆みたいだから、鍛えなきゃ美容外科医としても説得力がないんじゃない?」とまで言われた。それで、僕も2年前からジムに通い出して、トレーニングを始めた。ようやく2年かかって、ワーク・アウトが生活の一部になり、彼らの仲間入りができた。ファッションが大好きなウイリアムが「どんなに高価な服を身につけても、体が鍛えられていなければ似合わない。逆に、体が鍛えられていれば、何を着ても似合うんだよ。」と言う。僕自信もワーク・アウトをはじめてから、肉体的な強さに裏打ちされた精神的タフさが身に付いたような気がしている。しきりに僕にワーク・アウトの大切さを唱え続けてくれた友人たちに感謝の気持ちでいっぱいである。 ビジネスマンとして成功したアルヴィン アルヴィンは医学部を卒業しているので、その面で僕と共通の話題が多い。彼の両親は今から40年以上前、スズの生産に目を付けた。鉄の上にスズをメッキすると錆の防止になる。今や錆びにくい鍋として広く使われているアルミニウムがまだ世に出回っていなかった頃、このスズでアルヴィンの家族は財産を築いた。裕福となったアルヴィンの両親は彼を英国へと留学させた。ウイリアムと同様、アルヴィンは15年間の学生生活を英国で過ごした。成績優秀だった彼はケンブリッジ大学医学部に進学した。大学を卒業し、英国で医師国家試験を取得したものの、形成外科志望だった彼の前には長く険しい外科医のトレーニングの道が待っていた。英国の外科トレーニングは過酷で、10年近い歳月を要し、その間薄給で働き続けなければならない。外科医になれないのであれば、医師になるつもりがなかったアルヴィンは、英国でのこのトレーニングを断念し、ビジネスマンへと転身した。その後、彼はニューヨークの大手銀行で富裕層相手の資産管理アドバイザーとして成功して現在に至る。 香港の資産家たち 彼は僕のクリニックで簡単なアンチエイジング治療をした後、日本橋三越前に数ヶ月前に出来たマンダリン・ホテルでの食事に僕を招待していただいた。東南アジアに本拠地を置く、マンダリン・ホテルはアジアンテイスト溢れる高級ホテルだ。アルヴィンはつい最近、香港に戻るまで、7年間ニューヨークで暮らしていたのだが、彼くらいインターナショナルな生活をしていると、何が一流かよくわかっている。僕は東京に来て5年になるが、彼らのような人種と知り合って、オーラ的に自分がどんどん上に引き上げられている気がしてならない。彼の年収は想像を絶するもので、僕も開いた口がふさがらないのだが、所得税や相続税が低い香港では、ウイリアムたちのような資産家(日本円で50億円以上持つ人)が結構いるらしい。彼はあと2年で資産家の仲間入りをしようとしている。ノーマンを含め、彼らのレベルは僕のような普通の日本人から見ると、稼ぐお金は桁違いである。しかし、よく彼らを観察していると。それほど凄いことでもないような気がする。要は、動かしているお金が普通のレベルより何桁か多いだけだ。つまり、そのお金を動かして儲けが出ると、その貢献度に見合っただけの歩合を手に入れるのだ。普通の感覚だとせいぜい数百万動かして、数十万の儲けを手に入れると思うが、彼らの動かすお金は世界の資産家から預かった数百億のお金だ。このお金を動かして、数千万の儲けをその都度手に入れるのだ。どうもお金は集まる人にはどんどん集まるように世の中は出来ているらしい。 お金持ちになることは悪いことなのか? ついこの前まで日本の常識だと、経済的に一人勝ちするのは良くないことだとされていた。悪い形で終止符を打つことなったものの、ライブドアの堀江氏がようやくこれまでの日本の常識を覆した。僕の香港のお金持ちの友達を見る限り、お金持ちになることは悪いこととは思わない。彼らは至って謙虚な人間だ。お金もちであることを自慢したりもしない。むしろ、彼らは世界中で自分たちのお金を使って、経済活動の原動力になっている。僕たちのような普通の人たちでも、頑張ればどんどん上がってゆけると目標でもある。彼らはお金を使って、いろいろなことを経験し、何が価値があるのかを僕たちに教えてくれるのだ。このような情報は僕たちに普通の人たちにとって、計り知れない価値がある。実際に僕は彼らと知り合って価値観が良い方にシフトし、“幸せになることとにお金は一般的に思われているほど重要ではない。”という極めて大切なことを学んだ。 アルヴィンの仕事は巨大ミューチュアル・ファンド(投資信託)のマネージャーだ。投資家から集めたお金を彼の一存によって上手に運用して儲けを出すのだ。万が一、うまくいかない場合は彼のポジションがグレード・ダウンするのだが、うまく運用すると計り知れない儲けが彼の懐に入る。ケンブリッジ大学医学部を卒業した彼は、医師とはずいぶんかけ離れた仕事をしているように思うが、本人曰く、やっていることは医師の仕事に近いという。僕は「何故だろう?」と思って、もう少し彼の仕事について、詳しく訪ねることにした。マンダリン・ホテルのディナーは中盤にさしかかったが、フォアグラソースのかかったムニエルの上にキャビアが乗っていたりして、豪華絢爛だった。アルヴィンは僕に向かって「もし、このようなディナーを毎日食べるような生活がしたいとすれば、どの世界でもトップにならなければね。」と言ってにやりと笑った。一見温厚そうに見える彼も、ビジネスとなると常に超一流であることを虎視眈々と狙う勝負師なのだ。
ドイツへ行くきっかけ 僕はドイツ美容外科学会が初めて開催した第一回ドイツ国際美容外科学会に2004年7月6日~7月13日の一週間、参加した。この学会に参加する動機となったのは、ドイツ美容外科学会長のマング教授によって執筆された美容外科マニュアルと出会ったことによる。美容外科に関するテキストブックは今までにもたくさん出されているが、その全てが必ずしも的を得ているものとは限らない。常々、シンプルで美容外科では重要とされるヴィジュアル的な物を探していたのだが、アマゾンドットコムで最近最も売れている美容外科テキストブックがこの本だったのである。 この教科書はヴィジュアル的に優れたもので、手術に関する手技中心のシンプルなものであり、手術前には必ず目を通すようにしている。さらに、実際の手術風景のDVDもついているため、手術前に見ると、大変良いイメージトレーニングになる。この本の巻頭にマング教授のコメントがあり、そこには世界各国から、この教授の運営するクリニックに訪れる医師が多数いると記載されていた。僕にも見学するチャンスがあると判断して、早速マング教授にメールを送ったところ、見学を快く承諾していただいた。 ドイツ美容外科学会とは? ところで、ドイツ美容外科学会とはどのようなものなのだろうか?元来、耳鼻科医であったマング教授が中心となって12年前にドイツ形成外科学会、ドイツ口腔外科学会、ドイツ耳鼻咽喉科学会が共同で立ち上げたものである。彼らはあくまでも手術治療を行う、美容外科にこだわっており、メスを使わないヒアルロン酸、ボトックス注射、レーザー治療などの治療とは区別をしている。 これらのメスを使わない(bloodless)な領域の医師たちがが、その境界を超えてメスを使う領域に経験もなく入ってくることに警鐘を鳴らしている。この学会の目的も、そのような未経験な医師達に対する教育や、しっかりとしたコンセンサス、基準を作ろうとしている。手術を行なうのであれば、これらの教育を受けた上で行なう必要があることを主張している。我々の国においても同様なことが起こりつつあり、このようなガイドラインをもうけることは非常に重要である。早急に見習う必要があると思われ、本学会に参加することとした。 南ドイツ・ボーデン湖畔 マング教授はドイツの南に位置する、ボーデン湖畔に近いリンダウという街にBodensee クリニックを築き、ドイツ国内外から患者を集めている。リンダウは小さな街で人口は数千人だ。この街はドイツ、スイス、オーストリアの国境近くに位置していたため、僕はスイス航空にてジュネーブに飛んだ。そこからコンパクトなプジョー409を借りて、東に位置するドイツに向かって進んだ。 高速道路にはドイツ車やフランス車が目立ち、日本車はたまにホンダ、トヨタのコンパクトカーを見かける程度だ。ヨーロッパでも日本車の独壇場にさせない、彼らの意図がうかがえる。実際、近年のヨーロッパ車の性能は日本車に劣らない。 スイスの丘陵地帯はとてものどかで、草原には屋根のとがったきれいな家とその前には牛たちが横たわっている。夏のスイスの空は澄み切っており、アルプスの少女ハイジのイメージそのものだ。自家風力発電の羽塔がいたるところにある。風景がこんなにきれいに見えるのは、ヨーロッパが風力発電を積極的に取り入れて、環境のクリーン化に力を注いでいるせいであろう。 一時間も走ると、プジョーの操作も次第に慣れ、時速100kmの制限のところを130kmで飛ばし、多方の車を抜かし始めた。ドイツ国境もノーチェックで通過した。ユーロのおかげでヨーロッパの国がほぼ一つにまとまっているからであろうか。国境の検問につきものの、ピリピリした緊張感はなかった。 ボーデン湖畔は日曜であったためか、レジャー帰りの思わぬ渋滞に巻き込まれ、湖畔までの100kmの道のりを1時間弱で来られたものの、結果リンダウ到着には2時間かかり、時計は午後8時をまわっていた。しかし、サマータイムのせいか、この時間でも湖畔には数知れぬヨットが浮かび、水辺では日光浴、水浴びをしている姿が多かった。 Bodensee クリニックにて クリニック内はヨーロッパ家具が置かれ、質素であるけれども、小奇麗である。言葉はドイツ語で話されているので、全く分からず苦労した。もう少しインターナショナルな共通語として英語が浸透していると思ったが、ドイツに関してはあまりそうではない。かつての強国として自分たちの文化に誇りを持っているせいか、英語がわかっていても、敢えてドイツ語を使う徹底ぶりが印象的だ。 テレビもCNNを除いて全てドイツ語。英語で話しかけると、ようやく英語で必要最低限の事を答えてくれる。ラジオではシューマッハがF1で優勝したことを何度も繰り返し伝えていることが、ようやくドイツ語で理解出来た。 初日は豊胸手術を見学することとなった。各国から多くの医師たちが見学に来ているため、実際に手術室で見学することは出来ない。ライブサージャリーと言って、手術室で実際に行っている状況を生で、隣の部屋にいる僕たち医師にビデオで見せるのだ。実際、この方がズームで見られるので、手術室で覗き込むより、よく観察することが出来る。次の日はわし鼻の手術、その次の日は脂肪吸引とライブサージェリーが続いた。日本でも頻繁に行われている治療ではあるが、その治療過程と結果が微妙に違う。その違いの中に、より良い治療を行うためのヒントが隠されている。相変わらず、説明の言語は全てドイツ語、何を言っているのか全く分からず、手術シーンにかぶりつくしかなかった。これでも、大学時代の第二語学はドイツ語を選択した。いつも成績はA,B,Cの中でC、とんでもなく不勉強で、そのつけが今になって現れたのだ。日本語、英語以外の言葉の壁がこれほどまでに厚いとは思いもよらなかった。
久しぶりの帰省 先日久しぶりに2日間、連続で休暇を取ることが出来たので、北海道に帰省することにした。東京から北海道までは飛行機に乗ってしまえば一時間ちょっと、あっという間に到着する。いつでも帰れると思うから、逆になかなか実際には帰らない。東京に来てからの5年間を振り返ってみると、せいぜい一年に一度しか帰っていなかった。“故郷に錦を飾る。”ということわざがあるが、東京で多忙な生活をしていると、ある程度メドがつくまではとても故郷に戻る気がしない。故郷に戻れば、張りつめていた緊張が一気に緩んで、東京の生活に自分をリセットするのが億劫になるからだ。 上京して5年目になんとか開業に漕ぎ着き、それから一年が経過した。今後の見通しが立つようになったので、久しぶりに帰郷することにした。北海道に降り立つと、タイムスリップしたような気持ちになって、目に映る景色からさまざまな過去の記憶が蘇る。街並を見ていて気になるのは建物のメインテナンスがされないまま、至る所に錆びが目立つ建築物だ。過去10年間の日本経済の低迷が北海道のような地方へ直接影響しているせいなのだろう。街を歩く人々は高齢者が多く、日本社会が急速に高齢化していることを物語っている。六本木や銀座のような常に活性化された土地では見慣れない風景に、都市と地方の格差が現実的であることを感じた。 北海道の魅力 北海道の食べ物でなんと言っても美味しいのは新鮮なお魚などの食材だ。真っ先に食べてみようと思うのが、お刺身やお寿司。実際に食べてみると確かに美味しいのだが、東京でもある程度のお金を払うと、同じレベルの食材を食べることが出来る。これも物流革新の恩恵で、地方の新鮮な食材は、今や東京にいれば、簡単に手に入いる。食事の後は札幌市街中、どこでもある天然温泉でゆっくりすることにした。とても心地よい温泉で、ぼーっとしつつ、北海道は美味しい食材にしろ、温泉にしろ自然の恩恵に恵まれた場所であることを実感する。僕の友人の一人は札幌近郊で、温泉の湧き出る一軒家を購入して大変満足しているらしい。 びっくりドンキーのハンバーグ 特別な用事もなくふらっと訪れた旅行だったので、何をしたら良いのか時間を持て余しそうになった。普段、東京で次から次へと予定をこなしてゆくのとは正反対の感覚だ。家の車で僕が青春時代を送った札幌の街並を見に行くことにした。ふと通りかかった路先に“びっくりドンキー”と呼ばれるハンバーグ店が、20年前と同様にあった。あれから、20年の歳月が経っているのに、このレストランはいまだに存在していた。この店は純粋な道内企業で、調べてみると順調に成長しており、関東でも店舗を展開するようになっているらしい。 このハンバーグはソースの味付けが良く、美味しい割に安価だったので、その頃からとても人気があった。週末になると混み合って、北海道の店としては珍しく列を作ることもあった。定番のハンバーグ定食は480円で、サイズが大きくなるにつれて、値段もアップしてゆく。一番大きいサイズはハンバーグが400グラムで、値段は800円くらいだった。僕はその頃、20歳と活発な学生だったので、常にお腹を空かしていた。いつも一番大きなサイズを頼めたらどんなに幸せなことかと思っていた。でも、どうしても大きなサイズのハンバーグを頼むことは出来なかった。何故なら、普通のサラリーマン家庭で育った僕は医学生時代、家庭教師などのアルバイトでせいぜい、月1~2万円程度のお小遣いしかなかったからだ。 失われつつある食欲 経済的にビッグサイズのハンバーグを頼めるようになったものの、あえて普通サイズのハンバーグを注文した。今の僕は学生時代、野良犬のようにお腹をすかしていた若者ではない。僕が医学生時代に受けた授業で、忙しく働く医師が教鞭をとっていたが、僕たち医学生に諭すように、「いいかい君たち、学生時代は暇があるけど、お金がないと嘆くかもしれない。でも、将来君たちが医者になったら、お金には余裕ができるけれど、時間がなくなるんだよ。世の中にお金も、そしてそれを使える時間がふんだんにある人なんてそうはいないからね。」と言った。この医師は当時、医師としてとても忙しかったのだろう。授業以外には暇を持て余し、だらだらと過ごす僕を含めた不真面目医学生に、時間の大切さを伝えたくて、そう言ったのかもしれない。これと同様に、若い頃は食欲旺盛だったが、それを満たすだけのお金がなかった。今はお金はある程度どうにかなるものの、かつての食欲はすでに失われていた。「これが歳をとるっていうことなんだろうな。」と実感するものの、過去に楽しい想い出と感じる余裕がある限り、歳をとることもそれほど悪いものではない。 時間が経っても変わらない味 大学を卒業して以来、食べることがとても好きな僕は、先輩の医師らとともに、さまざまな美味しいものを食べてきた。特に、東京へ来てからは生の食材を上手に工夫して、その味を引き立たせるイタリアンやフレンチ料理の味を知り、感動を覚えたものだ。舌の肥えた今の僕にとって、20年前大好きだったびっくりドンキーのハンバーグの味をどのように感じるのか、とても興味があった。このレストランは昔と変わらない内装の中、相変わらず家族や若者でにぎわっていた。注文したレギュラーハンバーグを食べてみると、その味は20年前の感覚と一緒で、とても美味しかった。このお店がここまで発展しているのも、この味は誰にでも普遍的に美味しく感じるからだろう。2月下旬の北海道はまだまだ寒く、東京と比較するとあらゆる面で引けを取るこの北の大地。しかし、経済的に優位に立つのだけが、素晴らしいことではないとも思う。北海道には東京のような大都会にはない、自然が有する何とも言えないおおらかさがある。久しぶりに北海道で感じたこの気持ちは、35年近く僕を育ててくれたこの土地への敬意に他ならない。

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