GINZA CUVO

今から12年前の2005年、僕がこのクリニックを開業した当時、美容外科医療でのホームページの集客力は絶大だった。ご存じの通り美容外科医療はそれを受ける方々にとって、出来れば誰にも知られず行いたいと願う守秘性の高い医療いため、一人でこっそり検索出来るインターネットはこの医療に興味のある方々にとってはまるで宝物のようだった。

 

当時成功する見込みも分からず無我夢中で開業にこぎ足した僕は、そのエネルギーをひたすらネットに注ぎ、現在のホームページ基盤も開業から数ヶ月であっという間に作り上げた。その成果があったり、当時は下眼瞼クマ・たるみ治療を専門的に打ち出しすクリニックが当院以外存在しなかったこともあり、大盛況を呈したことが昨日のことのように懐かしい。

 

その大盛況ぶりを周囲で見ていた他院がこぞって当院の戦略を模倣し、同様のネット広告を駆使した集客戦略をにわかに始め、驚いたことにはなんとその他院が”我こそがこの治療の先駆者”と謳った宣伝を始めたのを呆れながらに傍観し、これが”先駆者の苦労”なのだろうと悟った。

 

そうこうしているうちに時は瞬く間に経過し、今やさほどネット広告に力を注がずとも安定した集客が得られ安堵出来るようになった。そしてかつてのようにな頻繁なモデル写真の更新作業お控えるようになった。と言うのも眼瞼治療の治療方針・手技はすでに完結しているので、これ以上ホームページに同じ内容を繰り返し更新する必要性がなくなったからだ。

 

その代わりに最近力を注いでいるのは、僕が過去に行った治療結果の分析・検証作業であり、その結果をテキストブック(教科書)や論文にまとめるほうが、ホームページ・アップの繰り返すよりも、社会的に見ても遥かに価値があると思っている。そして僕のようにこの分野の中堅となった医師は、自院のネット宣伝だけではなくこの医療発展のための学術的貢献を行うべきだとも考えている。

 

ところが最近、僕のホームページを見た遠方在住の若いお客様か連絡がありスタッフが電話対応したところ、このお客様は”当院で下眼瞼治療を今も行っているのか?”との問い合わせだったという。彼女がそう思った理由を尋ねると、僕のホームページ症例写真の更新が最近あまりなされていないからだったという。

 

これまで継続していた症例写真の更新が途絶えると、ネットでしか当院のことを知り得ない方々はこのお客様と同様の判断をする可能性があるだろう。そこで僕はネット導入されるお客様のためには、頻度は多くなくとも今後も症例写真を定期更新する必要があることを悟った。

 

そんな最中、昨年頃から消費者庁・厚生省による美容医療への本格的な広告規制が入り始めた。その詳細は、ホームページで患者を治療に誘導するために謳った”日本一”とか”業界初”などの文言の規制、さらにいわゆる”ビフォー・アフター”と呼ばれる治療前後の比較写真に脚色を加えていないか等の検閲が入るようになったのだ。それは患者誘導のために治療後の写真に脚色を加えたりする浅はかな行為が横行し、それが原因で消費者庁にクレームが舞い込むケースが後を絶たなかったからだと言われている。

 

欧米先進国ではすでに随分前から美容医療で厳しい広告規制がかけられており、ようやく日本も欧米に追いついた感があり、この医療がまっとうな方向に向かうであろうこの政策を僕はむしろ歓迎している。何故ならこれを契機に、もはや広告宣伝が長けているだけで円滑な集客がなされる時は過ぎ去り、患者さんにとって有益な医療のみを提供出来る施設だけが生き残る本当の意味での美容医療の新たな幕が今まさに開かれたからである。

 

医学部卒後あっという間に25年近くが経過し、すでに僕は医師として中堅からベテランの域に達していた。それを痛感したのは数年前出身大学の同窓会に出席した際、ついこないだまでお互い若い医学生だった同級生たちがすでに役職を得た経験豊富な医師となり、今や後進指導に当たる立場である姿を垣間見た時だった。

 

東京・銀座で開業した僕は最初こそこの地を”アゥエー”と感じたが、10年以上も診療を続けているうちに今やこの地を”ホーム”と思えるようになった。銀座は美容診療を行う医師たちには魅力溢れる場所らしく、現在も新規開業が後を絶たない。僕はそういった新規開業を傍観しながら、医師のキャリア確立について考えてみた。

 

医師のキャリア選択第一ステップとして、医学部卒後に以下の2通りの選択肢がある。

1.医学系大学院へ進学し基礎研究を目指す。

2.卒後直ちに臨床医学研修を行い臨床医を目指す。

 

1を選択すると臨床医ではなく基礎医学研究者としてのキャリア選択なので、その延長線上には医学系大学の教授職や、医学系研究所等での研究者としての地位が待っている。2を選択すると臨床研修後、自ら選択した専門分野で一人前の診療が出来るようになると、将来は大学病院を含めた基幹病院での勤務医か、もしくは独立開業医の道を選択することになるだろう。

 

僕を例に挙げるとそのキャリア確立は非典型的で、まず最初に1を選択し、その後2にコース変更した。その理由は僕が医学部卒後、いわゆる”モラトリアム”と呼ばれる学生時代のような責任のない立場継続を求め、社会人となるのを先延ばししようとした。すなわち学生生活の延長をもくろんだため、さほど基礎研究に興味があった訳でもないのに敢えて大学院へ進学したのだ。

 

その4年間の大学院生活で基礎研究を行い、曲がりなりにも医学博士号を獲得し、大学院卒業の際担当教授に頂いたコメントは”あなはた基礎研究には向いていません。これから臨床医を目指すべきでしょう。。”だった。僕自身”まさにその通り”だと確信したので大学院卒後、出遅れたものの臨床医の道を目指すべく上記2へ進路変更したのだ。

 

その後僕は整形外科・形成外科研修を8年間行った後、開業し現在に至っている。今振り返ると僕の医師キャリア確立は基礎研究から始め、その後臨床医学研修まで幅広く網羅したので、結果的に自らの適性をしっかりと確認出来たと思っている。僕の選択した経過は紆余曲折がありキャリア確立まで長い時間が必要だったが、現在の外科開業医の立場を天職だと感じているので結果的にこのキャリア確立法は正解だったと思っている。

 

古くからのことわざで”急がば回れ”とあるが、一般職種と違い決まった定年退職時期もなく、能力さえあればいつまでも働ける医師であれば、キャリア確立までのスピード(短時間)を最優先にする必要はさほどない。医師キャリア確立のプロセス(経過)はオセロゲームを例に挙げるとわかりやすいが、それはこのゲームの勝敗のつきかたの特徴にある。

 

オセロゲームはゲーム途中の相手の持ち石色数が多く、その経過で形勢不利に見えてもゲーム後半でゲーム盤の四つ角を確保すれば相手の石色を一気に自分の色に変えることが出来る。すなわち”急がば回れ”のことわざにあるように、このゲームでは勝利へのポイントをしっかり抑えさえる動きさえすれば、ゲーム中ずっと形勢不利に見えてもゲーム最終局面で一気に勝利へ導けるのである。

 

開業医は開業当初負債を抱えており、その返済のため収益優先で診療を行う傾向があり、それはオセロゲームにたとえるとゲーム開始時に出来るだけ自分の石色を増やそうとする誤った努力に似ている。そのような開業当初から儲け主義的なやり方をしていると、賢明なお客様たちは医療の原点から外れたその誤った方針を見事に見極めるので次第に客離れが進み、安定経営(成功)が遠のいてゆく。

 

逆にオセロゲームの如くゲーム開始(開業)時なかな持ち石の色(売り上げ)が少なくても、ゲーム盤の4つ角を抑えるように医療の原点、すなわちお客様のメリット(恩恵)最優先に着実にやってゆけば、勝利(開業の成功=安定経営)は後から必ずついてくるはずである。そんなことをこの春銀座で僕と同業で続く開業ラッシュを見ながらふと思った。。

駆け足で診療に邁進したこの10年だったが、最近になって今後の美容外科のあるべき姿を明確化出来た感じ、この医療に対して自信が持てるようになった。この感覚は僕の行う顔面抗老化(アンチエイジング)外科手技が多くの症例を通して、より洗練され安定するにつれ生じ始めた。

 

ここで飛行機フレーム(機体)を例に挙げて、この事を説明しようと思う。飛行機フレーム(機体)は、現在のエアロダイナミクス(航空力学)理論に従う以上、これ以上進化しないと言われている。その証拠に機体は過去30年以上改善の余地はなく、同じ形状を維持している。したがって機体は、メインテナンスを行う限りほぼ永久的に使用可能で、実際現在世界を飛び回る旅客機の中にも30年前以上前に製造された機体が多数存在する。

 

僕が行う眼窩周囲・頬など顔面抗老化外科手技は上述の飛行機フレームの如く、完成域に達したと自負している。そこに至るには決して平坦な道のりとは言えず、僕の治療方針・手技に賛同し、治療を受けて頂いた多くのお客様があってこそなので、彼女・彼らに強い感謝を感じている。

 

僕は幸運にも、当時ほとんど行われていなかった結膜面からアプローチする下眼瞼治療を行った所、この治療を待っていたとばかりに多くのお客様が訪れ、比較的短期間に多くの症例を経験出来た。そして現在の僕には、いくばくかの時間的・精神的余裕が生じたので、下眼瞼治療についてその詳細を見直すことにした。すると下眼瞼領域のみでもこれまで知られていなかった新知見が沢山あることにも驚かされている。

 

そもそも外科医療の歴史はまだ浅く、19世紀に麻酔が開発されてからようやく外科手術が行えるようになったに過ぎない。その後外科医療が急速に発達したのは、第一次世界大戦で火薬兵器が使われ始め、爆発エネルギーによる外傷治療の必要性に迫られた20世紀初頭になってからである。すなわち外科医療が行われ始めてから現在まで100年余りだが、美容外科の歴史はさらに浅く、長く見ても80年弱なので、まだまだ未解明の事象があって当然なのである。

 

僕は大学院生時代、担当教授から「医師は疾患を治す臨床医であるとともに科学者でもあります。あなたがどの分野に進んでも、得られた知見を分析・検証する努力を決して怠ってはなりません」と言われた。あの時の教授の言葉を思いだし、技術的に安定した今こそ、漫然と同じ治療を繰り返すのみでなく、僕が培った治療手技を体型づけるべきとの意欲が湧き始めた。次第にそれは眼窩周囲に関する教科書を記載することが僕の医師としての、もしくは科学者としての使命を果たすことだとも閃いた。

 

そこで僕は過去に記載したホームページ、ブログ、論文を集積し、それらをまとめ直すことで一冊の教科書を記し、その題名を”アイデザイン(眼窩周囲の美容美容外科)”と銘打った。この教科書はすでに刊行され、すでにこの医療に従事する医師たちの目にも触れている頃だろう。僕はこの教科書の執筆作業を通じて、これまで自分が行った仕事を再確認したと同時に、頭の中により堅固な治療体型・論理が根付いたと実感した。

 

日々遭遇するお客様たちの症状は千差万別であり、全く同様の治療を行ってもその結果には必ず某かの個人差が生じる。逆に得られた治療結果が全く同様であっても、それを受け取る側の個人差によりその評価は異なることから分かるように、美容医療は大変デリケートな側面を持っている。美容医療では、常に良好な治療結果を得るのが至難の業だと言われのは上記理由に他ならない。すなわちこの医療を熟慮なく実践すれば、それあまるで真っ暗な夜道を松明もなしに歩くのと同様に、常におぼつかなさを感じざるを得ないはずである。

 

だが今回僕は、この教科書(”アイデザイン”)を執筆したおかげで、夜道を歩くのに松明を得たような自信を感じている。それは今後、様々な症例にお目にかかったとき、たとえそれが困難な症例だったとしても、安定した結果を出せるであろうという確固たる自信である。これが2年半の歳月をかけて、苦労しながら成し遂げたこの教科書の執筆作業から得た僕へのご褒美だと思っている。

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4年生大学院生活の3年間、僕は米国で留学生活を過ごし、帰国してからも当時の留学経験の影響力が強く、常日頃から日本と米国の違いを意識しながら過ごすようになった。幸運なことに僕はこの留学経験を通じて、研究室で海外から研究に来ていた同僚たちと英語で論議を交わす程度の英会話能力を習得した。この英語力は、日本に戻って来ても維持するよう努力をしてきたつもりだ。

 

そして15年前に上京して以来、美容医療を目指し現在に至るが、この間香港をはじめとする多くの英語圏のアジア人、そして”エックスパッドと呼ばれる英語圏のビジネスマンたちと交流してきた。その結果、東京がれっきとした国際都市であること、その風潮は年々強くなっていることを実感している。

 

ビジネス分野で英語活用の重要性にいち早く気づいた楽天・ユニクロなど日本の誇る大企業は、すでに日本語の代わりに英語を社内共通言語とし、ビジネス・マーケティングの範囲を国内のみならず、国外へと広げ始めている。だが僕を含め、戦後生まれの中高年層は学生時代、英会話自体を学ぶことは希で、高校・大学受験のための英文法・や英文読解ばかり勉強してきた。

 

つまり英語文字教育の影響が強く、英会話に接する機会がなかったので、米国で共に研究生活に勤しんだ先輩日本人医師たちも、難解な英語論文をすらすらと読んだり、米国人に引けを取らないハイレベルな論文を執筆していたにも関わらず、いざ英会話となるとほとんど話せないという矛盾が生じていた。

 

だが驚いたことに、今を生きる平成生まれの若者たちは学生時代から英会話に慣れ親しんでいるのか、戦後生まれの昭和世代よりも、明らかに英会話能力が高くなっているのに気づかされる。その証拠として、しょっちゅう日本を訪れる香港の知人たちは、以前はショッピングの歳、ほとんど英語は通じなかったのに、最近は若いショップ店員さんたちが、英語圏のお客様とのやりとりに困らない英語能力を習得しているので、随分買い物がしやすくなったと口を揃えて言うくらいだ。

 

実際僕も、香港の友人たちと銀座や表参道でのショッピングに付き合い、日本語が分からないふりをしながらショップ店員の様子を見ていると、20代前半の彼女・彼らたちが僕の若い頃よりも断然流暢な英語を話しながら仕事をする姿を垣間見ながら、頼もしいと思うと同時に時代の変遷を感じている。

 

このように東京はすでに国際都市として位置づけられており、いかなるビジネス分野でも第一線で活躍するのであれば、英語でのコミュニケーション能力は必要不可欠である。もっと言うと、さらに上を目指すのであれば、日本語と英語を使うバイリンガルにとどまらず、さらにもう一言語を理解するトリ・リンガルを目指すべきであろう。3カ国語を流暢に操れるとすれば、それは特化された高い能力とされ、競争の激しいビジネス分野でも勝ち残ってゆけるだろう。

 

美容医療で仕事をする僕の場合も、英語を用いたコミュニケーションは必要不可欠となる。医師と患者間で使う言語が異なる場合、通訳を介してコミュニケーションを図ることになる。だが医療の場合、その内容が専門的過ぎること、医療行為自体がプライバシーにかかわる大変デリケートなものであるため、その詳細や本心を通訳を介して説明したり、理解するの大変困難なためである。

 

美容医療を求める多くの英語圏の患者さんたちが、担当医師と直接英語でカウンセリングを行うことで安心・信頼感が得られ、その結果治療に踏み切る決意が出来たとおっしゃっている。つまり海外の患者さんたちも日本人と同様、医師-患者間に確実な信頼関係が構築されてこそ、治療への理解とその結果に対するより高い満足度が得られる。よって英語圏の患者さんには担当医師が直接英語でコミュニケーションを図ることが極めて肝心である。

 

東京で暮らすことは、家賃が高かったり人が多くストレスが溜まりやすいなど、必ずしも良いことばかりではない。だがこの場所は自己向上への刺激に溢れた場所であり、将来を力強く生き抜くのに必要な国際能力・感性を獲得するには格好の街でもある。僕自身も将来の日本を背負う、平成生まれの若者たちとともに、出来るだけ長く第一線で活躍出来るよう、高いモチベーションを維持しながら生きてゆきたいと思う。

"熱中症"

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今夏は冷夏と予想されていたにもかかわらず、ふたを開けてみると記録上最も暑い夏となった。その原因は、CO2上昇、森林伐採によるいわゆる”地球温暖化(温室効果ガス)”の影響が考えられる。また今年は、4~5年に一度発生する”エルニーニョ現象”が発生したともされている。”エルニーニョ現象””とは、太平洋上の東赤道付近のエリアから南米にかけて海水温度が上昇する現象でその影響は1~1年半継続するとされている。

 

実は昨年”エルニーニョ現象”が発生し、その影響により今夏は猛暑になったとの見方もある。その証拠に日本を取り巻く海水温は平年の同時期より3℃以上高いらしく、通常この時期日本近海で見かけことの少ない魚やサメなどが出現して、我々を驚かせている。

 

そしてこの猛暑で、さらに世間を騒がせているのが”熱中症”患者の急増である。”熱中症”とは高温環境下で、体内の水分や塩分(ナトリウムなど)のバランスが崩れたり、体内の調整機能が破綻するなどして発症する障害の総称である。”熱中症”の恐ろしいのは、初期応急処置を怠ったり、症状を軽くみてそのまま放置したりすると死に至りかねないことだ。

 

そしてその数は下図の如く、2009年頃から急激に増加しており、今年は8月中旬の現時点ですでに5万人を越えている。熱中症が2009年以降の急速増加の原因は、

1.ヒートアイランドによる日本の夏の高温化

2.高齢者、一人暮らし、経済的困窮者など、いわゆる熱中症弱者といわれる人々の増加

3.”熱中症”という言葉の認知度が上がったことで”熱中症”と診断される患者数が増加

らしい。

 

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また”熱中症”は乳幼児や高齢者に発症しやすいが、それ以外の誘発原因には下記の体調不全がある。

 

1.風邪を引いている

2.二日酔い

3.睡眠不足

4.疲労している

 

こういう状態で長時間高温・多湿の環境下で水分・塩分補給を怠れば、”熱中症”に陥る可能性が非常に高くなる。僕自身も幼少時に海水浴に出かけ、炎天下の海辺で水分補給もせずに波と戯れているうちに、急激な吐き気やめまいに襲われ、その後高熱が出て大変辛い思いをしたことがある。

 

また北海道で救急医療に従事していた頃、真夏の昼間ソフトボールに昂じていた公務員の一人が全身のしびれ・痙攣を訴え、救急搬送されてきたことがある。今から20年以上前、北海道で”熱中症”は大変珍しかったが、この患者さんこそまさに”熱中症”に罹患した患者さんだった。僕はこの患者さんを涼しい場所で安静にしながら電解質輸液を行ったところ、症状は速やかに回復に向かった。

そして卑近な例として、40代前半の僕の友人が、先週のお盆の暑い盛りに”熱中症”で倒れ、救急車で搬送され、数日間病院で過ごすはめになった。この友人から当時の様子を詳しく聴くと、輸入業を営む彼は、屋外から炎天下で重い荷物を担いでビル4階にある彼の事務所へ往復していたが、突如体が痙攣し始め、動けなくなったとのこと。

 

これは”熱中症”だろうと思った彼は途端不安になり、その結果過呼吸症状まで出現したらしく、携帯で家族に助けを呼ぼうとしても手に力が入らず電話をかけることもままならなかったらしい。そして次第に意識が遠のいていったらしいのだが、たまたま通りかかった人が救急車を呼んで一命を取り留めたとのこと。身近にこのような熱中症に陥った友人まで現れ、高温多湿下ではこまめな水分・塩分補給が欠かせないほど、ここ最近の夏は暑さの厳しい状態が長期間継続しやすいことを改めて実感した。

 

僕北海道出身の僕は、暑さに堪えやすい体質であるものの、お陰様でこの猛暑もいたって健康に過ごしている。それは上記に列記した”熱中症”になりやすい生活習慣を回避するよう、普段から気をつけているからだ。すなわち日頃の基礎体力の維持こそが、”熱中症”をはじめ万病予防の最良の対策であり、いつまでも若々しく長生きする”アンチエイジング”に直結する秘訣といえるだろう。

 

先日テレビで報道番組を見ていると、救急医療を専門にする民間クリニックの特集が放映された。僕も救急医療に従事してたことがあるので、この医師の仕事ぶりには目を離せなかった。この医師は埼玉で救急医療専門クリニックを運営しているが、その理由はこの地域で救急医療を必要とする患者さんたちの引き受け先がなく、総合病院の救急施設での医療行為を断られるなど、いわゆる”たらい回し”が横行しているからだという。

 

このクリニックの診療は、午後5時から翌朝まで行われているが、この時間帯通常のクリニックで診療は行われていないので、この地域では高いニーズがあると見えて、深夜のクリニック待合室は足の踏み場もないほど混雑している状況が放映されていた。

 

番組内では受診している患者さんの例として、自転車走行中に耳の中に蛾が入って取れなくなったケース、鉄棒から落下し上腕に大きな怪我をしてすぐに縫合が必要な子供のケース、若い女性が重たい物を急に持ち、縦隔気腫と呼ばれる胸部が裂け緊急手術が必要なケースなどなど、さまざまな患者さんが次々と担ぎ込まれていた。

 

特に若い女性の縦隔気腫と呼ばれる疾患は、呼吸困難など生命に関わる重篤な症状を引き起こすことがあり、早期発見・治療が欠かせない。だが初期症状は軽い胸痛程度なので、軽い鎮痛剤を処方される程度で返されたり、この程度の痛みでは緊急性がないとされ、高度救急医療機関では受診を断わられかねない。このクリニックは最新MRIを導入していて、診断の難しいこういったケースも見逃さず適切に処置しており、個人経営のクリニックにも関わらず、その価値は大変高いと感心しながらその報道に見入った。

 

患者さんの”たらい回し”として有名な事件は、2009年東京で起こったケースである。ある妊婦さんが救急車で産婦人科に搬送されたものの、症状は頭痛主体だったためこの産婦人科医は脳内出血を疑い、総合病院に紹介した。ところが症状が頭痛というさほど緊急性がなかったため、なんと7病院にその受け入れを断られた。ようやく引き受けられた病院で出産と脳外科手術を受けたが、その3日後に亡くなったケースである。

 

このケースは患者さんが頭痛を訴えた時点ですぐに脳外科的処置をすれば、死に至ることはなかったはずである。すなわち”たらい回し”が死に至る直接原因となったので、我が国の救急医療体制のあり方の根本的問題として大きな社会的反響を与えた。患者さんたちが”たらい回し”になるのは、救急医療機関が頭痛など、一見軽症に見えるの緊急性のない症例を断るケースが後を絶たないからだ。

 

それは高度設備を整えた救急医療施設で、こういった軽症例を引き受けても医療側の収益にはほとんどならず、いわゆる”労多くして功少なし”と判断するので受け入れを断り、その結果上記例のような悲劇が後を絶たないのだ。このように問題点の多い我が国の救急医療体制の中で、すなわち収益性が低いにも関わらす、敢えて民間救急医療クリニックを立ち上げたこの50代前半の医師の志は大変高い。

 

僕はこの医師の自己を犠牲にしてまでも、人助けを最優先にする姿勢に本物の医師の姿を見たと思った。この報道番組の最後で、この医師は”何故こんな過酷な仕事を選んだのですか?”とアナウンサーから尋ねられた。彼の答えは”それはこの仕事が大好きだからです”だった。

銀座には沢山の中国人たちがやってきていわゆる”爆買い”を行っているのを横目通勤している。特に夕方はその勢いが強く、多くの中国人たちが大型バスで銀座7丁目にやってくるので、2車線ある銀座中央通りも一本はこれらの大型バス駐停車に塞がれ一車線となり、毎日夕方の時間、この辺り銀座中央通りは大渋滞となる。

だが銀座の商売を考えるとこれは嬉しい悲鳴で、経済的に潤っている中国人たちがそのお金を日本で消費してくれるのは本当にありがたいことである。特に中国人たちは日本製”炊飯器”、”セラミック包丁”、”洗浄機便座”の”三種の神器”を購入するらしく、銀座7丁目にはそういった電化製品を扱う免税店が出来たため、大変賑わっているらしい。

 

僕が中学生だった1977年、札幌で大きな中国博覧会が開催された。当時道民の8人に1人が参加したこの博覧会に僕も行ってみたが、博覧会場にいた中国人たちは皆人民服を着ており、展示物はお米などの農産物、絹や毛糸、そして石炭や鉱石など天然資源など、いわゆる第一・二次産業の原料とその製品がほとんどだった記憶がある。

 

あれから37年が経過し、中国は1977年当時の日本、もしくはそれを追い越す勢いの経済力を保持するようになり、その結果バブル景気を謳歌したかつての日本と同様の経済的繁栄を得るようになった。一方我が国はバブル景気の終焉を迎えたものの、多くの人々は物質的に恵まれるようになり、現在を生きる日本の若者たちはかつてほどの物欲や金銭欲がなくなり、むしろ質素な生き方に価値を見出すようになった。

 

そしてこの新しい時代に物欲や金銭欲に執着しているのはむしろ、時代遅れで好ましくないとすら思われるようになった。我が国は代表的な先進国で、その生活水準は世界最高レベルの1つだと言って過言ではない。先進国に生きる人間の責任としてシンプルに生きることや、内面的充実感を得ることこそ幸せへの近道であること、そこに物やお金への執着が介在する場所はないと再認識すべき時でもある。

 

近い将来、現在繁栄を謳歌する中国もいつか成熟・衰退を迎えるだろうが、その時現在の日本の如く、お金や物にばかり依存しない内面的充足感に価値を求める時代がやってくる。その時この大国の落ち着く先の見本として日本は正しい方向に進む必要がある。

 

だが現在の日本はお金がどこかに停滞していて、それを人体を例にあげると血液循環がうっ滞し、健康障害を起こした状態に例えられる。その治療は血液循環を良くしてこそ健康が得られるのと同様に、お金を貯め込むのではなく積極的に消費活動を行い、経済循環を良好に保つことに他ならない。そういった使命を先進国に生きる者たちが担っていることを自覚し、意識改革をすることが明るい将来の実現に結びつくと僕は信じている。

 

春のこの時期、僕はいつも今から10年前の開業当初の同時期をまるで昨日の事のように想い出す。桜やさまざまな花が咲き誇る新緑の暖かい日、僕がクリニックを開いた銀座には大勢の人たちが所狭しといたにもかかわらず、お客さんは誰一人訪れず、不安と共に幕開けた開業だった。

 

当時美容外科はほとんど専門化されておらず、どのクリニックもすべての治療に対応するのが常だった。そして銀座にはすでに有り余るほどの美容系クリニックが存在しており、僕のような新規参入組が太刀打ちしても勝算があるとはとても思えなかった。

 

実際、この業界の先輩医師に銀座開業を相談したところ、”それは自殺行為に近い”と否定的なコメントしか得られなかった。そのとき閃いたのは僕が銀座で生き残るには、他クリニックが行っていないニッチ(隙間)で勝負すること、すなわちそれは当時は誰も提唱していなかった目元専門クリニックの立ち上げだった。

 

だが当時ニッチ勝負をしたクリニック成功事例が見当たらず、それは一か八かの賭けでもあったが、成功確率としてはこの戦略で勝負するのが最も高いと判断して思い切って踏み出したのだ。

今振り返るとよくぞ思い切ったものだと我ながら感心しているが、それはその頃ITビジネスですでに成功していた友人の、”たとえ上手くいかなくても命を取られるわけではないのだから、チャレンジすべき”の一言が僕の背中を強く押した。

 

そして僕のクリニックも現在までやってこれたことから察すると、この戦略は的を得ていたと言って良いだろう。今回僕は開業当時の様子を簡単に振り返ってみたが、上記文章中には”勝負”、”戦略”、”勝ち目”、”一か八か”などの単語を頻用している。それは開業がまるで戦争の如く生きるか死ぬか(存続出来るか消滅するか)の状況に近かったからに他ならない。

 

先日クリニック労務・人事を任せている社会保険労務士と会食をした際、以上に述べた僕の開業当初の苦労話をした。するとこの労務士さん、僕が選択したのは”ランチェスターの法則”と呼ばれる

戦略だと説明してくれた。”ランチェスターの法則”とは1914年に英国のフレデリック・ランチェスターが唱えた戦闘・数理モデルで、現在はビジネス戦略に応用されているらしい。

 

その具体的内容は戦争やビジネスで弱者が有利に戦うに際、ニッチ(隙間)で勝負するしかない。すなわ弱者のとるべき戦略は差別化戦略で、敵より性能のよい武器(技術)を持ち、狭い戦場(専門化された分野)で、一対一で戦い、接近戦を行い(一人一人と向き合って治療を行い)、力を一点に集中させることらしい。

 

そして労務士さんは僕に向かって”先生が開業当初選んだのがまさにランチェスターの法則で、銀座での一人開業のビジネスモデルとして大変有効な戦略だったはずです”と。”ランチェスターの法則”のおかげで生き残れた僕の次の目標はクリニックの長期的安定維持だが、それはより確実で安全な医療を継続することで得られるはずだ。安全チェック機構のさらなる補強、そして医療レベルアップに欠かせない従業員教育の徹底も図ってゆこうと思う。

 

美容医療はコンプレックス扱うため、以前から何度も述べているように守秘性が高く、いわゆる”口コミ”での集客が広がりにくい。そのため特にクリニックを新規に立ち上げる場合など、自らのクリニックを認知させるのに某かの広告宣伝が必要不可欠となる。

 

以前は紙面やマスコミ媒体を用いた広告宣伝が主流だったが、インターネットが普及した今、美容医療広告のほとんどがインターネットを介したものに様変わりした。ネット広告の普及は美容医療のみならず全ての業種に見られるが、プライバシー最優先の美容医療とネット広告の相性は特に良好らしく、瞬く間にこの業界内で浸透した。

 

逆に言うとネット広告なしでは美容医療ビジネスは成立しない、もしくはこれを上手に活用出来るかどうかがこのビジネスの采配を分けると言っても過言ではないだろう。このように美容医療業界ではインターネット広告が蔓延し、どの施設もこの媒体を用いて効率的に顧客誘導を図ることに躍起となった。

 

そしてその手法はヒートアップし、治療前後の、いわゆる”ビフォー・アフター写真”のアフター写真に加工・修正を加えて、実際に得られた結果よりもよく見せて顧客誘導を図ろうとする詐欺まがいの事例も出現したため、ついに国家機関である消費者庁が腰を上げ、ネット広告に規制が入ることとなった。

 

最近ネット業者と話す機会があったので、この辺りについて詳しく聞いてみると、やはりネット広告規制の動きは日増しに強くなり、今後新規でネット広告を出そうとする場合、原則的に”ビフォー・アフター写真”の掲載禁止、また”日本一”、”業界初”など明らかに顧客誘導を図るキャッチフレーズの使用も禁止となった。

 

正直僕のクリニックも2005年の新規開業当初、自分のやりたい治療内容をどんとネット広告に出し、そのおかげで早期に顧客誘導に成功したからこそここまでやってこれたので、インターネットの恩恵に心から感謝している。だが何事も適正範囲が肝心で、ネット広告への完全依存、そして過剰・不正広告まで出現する事態となった今、国策として規制強化されるのは当然のことかもしれない。

 

ではネット広告に完全依存せずに安定的な顧客誘導を図るにはいかにすべきなのだろうか。僕が思うにはその方法に王道はなく、既存の医療のあり方に回帰、すなわち従来通りオーソドックスな紙面を用いた広告宣伝に立ち戻りつつ、時間は要するものの人から人へ伝わる”口コミ”で認知されるのを辛抱強く待つしかないだろう。

 

その実証の1つとして、当クリニックは昨年以来インターネット広告をすべて取りやめ、その広告費は著書など紙面を用いた啓蒙活動に転換した。その結果は今後次第だが、ネット広告停止からすでに半年以上経過した現在、集客におけるマイナス影響はさほどない。

 

”広告なしでは集客出来ず”というは僕自身の強迫観念、もしくは杞憂の可能性もありしばらく成り行きを見守りたいと思っている。”歴史は繰り返す”ということわざにあるように、美容医療における広告宣伝のあり方も、今一度見直し、コツコツと実績を積み上げてゆくべきオーソドックな方法に立ち戻る時なのかもしれない。

 

 

 

嬉しい知らせ

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先日手術が終わってパソコンを開くと、クリニックに勤務していたあるスタッフから一通のメールが舞い込んでいた。僕はそのメールを読んで思わず微笑みがこぼれたのだが、その理由を以下に述べたい。

クリニック営業は全てを僕一人で行うことは到底不可能で、共に働くスタッフの存在が欠かせない。何故なら僕が行うのはあくまで手術で、手術に全力投球するにはそれ以外の業務をスタッフに任せるべきだからだ。

 

もっと言うと手術自体僕一人で行うことは出来ず、必ず助手介助が必要で、その助手の高い能力・資質が手術成功への重要な鍵の一つと言っても過言ではない。したがって僕は、常にスタッフたちに妥協を許さない厳しい躾けや訓練を課し続けている。'

 

時として僕のスタッフへの厳しい態度は、彼女たにとって叱りや説教となり反感を買うこともあるが、レベルの高い手術を維持するには致し方ないと心を鬼にしてやっている。僕自身、外科医研修を始めた頃は学生気分が抜けず、助手作業を上の空でやっていると、それを即座に見抜いた執刀医は"しっかり気合いを入れて手術に参加しろ!!"とどやしつけられたものだ。

 

その時僕は"外科医とはなんて恐ろしい人種なんだろう。。"と恐れおののいたが、手術が終わった途端、この外科医の顔はみるみる柔和になり、"何か美味しいものでも食べに行こう"と僕を食事に誘ってくれた。その食事会はとても楽しく、今想うとこの外科医は決して恐ろしい人などではなく、最良の結果をもたらすため手術と真剣に取り組んでいただけなのだ。

 

その後僕も外科医になり、自らクリニックを開業し、多くのスタッフたちとの出会い、別れを経験してきた。女性職員の場合、就職して数年経過すると結婚や出産などの転機を迎えたり、やむを得ない事情で故郷に戻る等々、退職せざるを得ない状況がある。

 

また20代前半の若いスタッフを雇うと、彼女たちには将来への夢や野心もあり、クリニックで数年勤務した後、実力をつけて新たなる活路を見出すこともある。その典型的な例を紹介すると、20代そこそこで当クリニックに入職したあるスタッフは、看護師資格を有していなかったのでエステ手技・手術準備・そのあと片付けを中心に仕事をしていた。

 

ところがこのスタッフ、医療系業務への筋が大変良く、数年間勤務しているうちに看護師業務以外の全てをとても要領よくこなせるようになっていた。そしてある日彼女は僕に「実は私、ここで勤務している間に幼い頃の夢が看護師になることだったと想い出しました。そして遅ればせながら看護学校に入学して、看護師になろうと思います」と。

 

彼女は若く有能だったので、今後も僕の元で働いてくれることを期待していただけに、大変ショッキングな知らせであった。だが幼い頃の夢を想い出し、それを叶えようと進み始めた彼女を制止するわけにもゆかず、僕は彼女の退職を認めた。

 

それから半年が経過したある日、このスタッフから一通のメールが届いた。その内容は「先生私、難関の看護学校に入学できました。これも先生の元で働き、看護師に真剣になりたいと思うようになれたからで、本当に感謝しています!」と。

 

クリニックの存在意義は、安全で価値ある美容医療を実践してゆくことに他ならないが、それ以外にも大切なものがある。それは看護師に羽ばたいて行ったこの元スタッフの例の如く、このクリニックが将来を担う若者たちの才能や資質を開発し、良い方向に導く道しるべとなることだ。

 

クリニックでは退職した彼女の代わりにすでに新スタッフが入職し、日々僕の厳しい指導に耐えながら研鑽を積み始めた。それは僕が若かった頃、先輩から与えられたかけがえのなもので、それを今度は僕が若者たちに与える役割を担ったのだ。この元スタッフと仕事に明け暮れた日々を懐かしく想いだしながら、そんなことを感じた。

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