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2017年9月アーカイブ

先駆的役割を果たした東京新橋十仁病院

 

我が国の美容外科医療の萌芽も,昭和初期にヨーロッパから導入移植されたものと言われている.前述のように,ヨーロッパの近代医療技術は第一次世界大戦で負傷した兵士たちの傷病に大きく寄与し,その方法と実績が我が国の美容外科の発展にも多大な影響を及ぼしたのである.

第二次戦後の日本の美容外科の進展の中で先駆者的な役割を果たしたのが,東京・ 新橋の「十仁病院」である.「十仁病院」は総合病院の形態を取りながら,多くの 美容外科手術を求める患者を治療した「美」と「医」の両輪を追究する現代美容医 療の先駆け的存在と言っても過言ではない.
 
日本における美容外科の歴史において,美容外科が正式な医療行為であるとの認 知に比較的時間がかかったのは,それが健康な身体に外科的侵襲を加える行為であ るのに対して,安全性の確立が不十分であったことが一つの大きな要因でもあった.
当時の美容医療一般は今日の美容外科の水準と比べると,“手探り状態”と言っ てよい段階で行われており,その中でもパラフィン製剤を用いた豊胸治療等による後遺症などが社会問題化されたことがあった.
初期の美容外科治療においては,豊胸術や顔の若返り術と称して,皮下に直接ゲル状のシリコンを注入し,合併症を引き起こしたり,隆鼻術と称して解剖学的に無謀なプロテーゼ(シリコン樹脂を板状に加工したもの)の挿入を試み,プロテーゼが後年に皮膚を突き破って出てくる症例などが散見された.
 
 
 
標榜科としての正式認定を受ける
 
こうした経緯から,医療の信頼性の回復と先進的技法の修練・構築という目的か ら,1958 年には日本形成外科学会が組織され,1972 年に形成外科は標榜科として 正式に病院の診療科目に加えられ,1978 年には美容外科も標榜科として正式に認 定を受けることとなる.この美容外科の認定に当たっては,「十仁病院」初代院長 梅澤文雄による情熱的とも言える強い働きかけにより,標榜科認定を受けたと言われる.
 
この頃を契機に,美容外科は社会的認知度を急速に広めていくのである.我が国 の経済社会は高度経済成長時代を経て,豊かに成熟した市民社会を形成するに至り, 女性たちの美しさへの憧れや願望・意識も急上昇のカーブを描いていった.外見的 美しさを獲得するための美容外科医療は,右肩上がりの社会とともに発展していったのである.
当時東京や大阪など,大都市のみに限定して事業展開していた美容外科医療で あったが,テレビ・ラジオなどのマスコミ媒体の急速な発展により,都心部のみな らず,日本全国各地にこの新しい医療の存在を知らしめることとなった.
 
そしてこの医療のビジネス価値をいち早く知った医師の中からは,全国チェーン展開する新手の美容外科クリニックも誕生し,瞬く間に拡大していったが,その一方では確実な技術を有することなしに強引な手術を行ったことに起因する医療トラブルも絶えなかった.さらには,治療を提供する医師側の明らかなモラル欠如と思われ金銭や女性関係にまつわる刑事事件なども多発し,美容医療の評価を著しくおとしめる結果を招くところとなった.
 
美容医療に携わるこのようなモラルの低迷は,別の見方をすれば需要過多の「奢りと混乱」であり,専門的な医療に裏打ちされず,業態として確立されていない不用意な精神がごく一部には横行したのである.人々が美容外科医療に対して他医療とは一線を画した印象を持ち始めたのも,人を救うという医療の本来あるべき姿から大きく逸脱する例がこの時期から跡を絶たなかったからである.
とは言え,「美」と「医」の二つの理想を追究する現代美容医療は混乱期の壊滅 的な打撃により,迷路に入り込むという深刻な事態を招くことはなかった.
 
国民経済はこの高度成長の後に起こったバブル経済の崩壊を経て,“失われた 10年”と呼ばれるような長い不況の低迷期に突入していくが,その間も我が国の経済活動は安定的に推移し,多くの人々に物質的充足感と安定した生活意識をもたらしている.
こうしたなかで,国民の価値観は〈モノよりも自分自身の存在〉にこそ求める傾向が強くなり,外見的価値の改善・見直しや維持に直接的に貢献する美容外科医療は,激変する社会状況に揉まれながらも着実に成長していったのである.
西暦 2000 年の新しい時代(ミレニアム)の幕開けとともに,モノよりも己に価 値を見出す志向は一層高まり,人々は自己の成長発展に対する投資を惜しまなくなった.
そして我が国は先進国の宿命とも言える少子高齢化時代を迎え,かつてのように若い次世代に現世代の老後をゆだねる時代は過去の産物に成り果てた.