GINZA CUVO

2013年8月アーカイブ

美容外科の歴史を紐解くと、最初の整形手術は紀元前1500年頃、インドで造鼻術が行われたという説がある。当時のインドでは刑罰として"鼻そぎの刑"というのがあったらしいが、そのそがれた鼻を元に戻すために額の皮を移植して鼻形成したという歴史が残されている。時を隔てて近代では、1845年にドイツのディーフェンバッハがユダヤ人に特徴的な鷲鼻を、当時美しいとされていたギリシャ・ローマ人のような均整の取れた形にする鼻形成術が行われていたらしい。


我が国の美容外科技術は、昭和初期にヨーロッパから導入されたといわれるが、その技術は第二次世界大戦で負傷した兵士たちの治療に大いに役立ったと言われる。また逆の見方をすると、この戦争による負傷者の治療成果が我が国の美容外科の大いなる発展に貢献したとも言える。戦後日本の美容外科で先駆者的な役割を果たしたのが、総合病院の形態をとりながら多くの美容外科手術を求める患者を治療した十仁病院である。


だが当時の美容外科医療は手探り状態で行われており、その中でもパラフィン製剤を用いた豊胸治療等による後遺症などが後年社会問題となり、1956年に東京大学整形外科の特別診療班として形成外科が発足した。そして形成外科は1972年に厚生省から標榜科としての認定を受けた。尚、美容外科に類似する美容皮膚科や美容内科はクリニックが独自に用いている例もしばしば見受けらるが、これらの名称は標榜科としての正式な認可は認められていない。


一方美容外科は1978年、十仁病院初代院長梅澤文雄による政治的な強い働きかけにより、標榜科認定を受けたといわれる。そしてこの頃を契機に、美容外科は社会的認知度を急速に広めた。その後美容外科は、一党一派にとらわれることなくさまざまな診療科から美に対するあくなき情熱を有する医師を広く受け入れ歩み始めた。


その後我が国は高度経済成長時代を迎え、国民生活が豊かになるとともに我々一人一人の美意識も向上していった。つまり、外見的美しさを獲得するための美容外科医療は、右肩上がりの社会とともに発展していったのである。そして美容外科の老舗、十仁病院から多くの美容外科医を輩出され、美容外科を標榜する開業医が次第に増加していった。


当時東京や大阪など、大都市のみで展開していた美容外科医療であったが、テレビ・ラジオなどのマスコミ媒体の急速な発展により、この医療は都心部のみならず、日本全国にこの新しい医療の存在を知らしめることになった。そしてこの医療のビジネス価値をいち早く知った医師の中からは、全国チェーン展開する新手の美容外科クリニックも誕生し、瞬く間に拡大していった。


だがその一方で、確実な技術を有すことなしに強引な手術を行ったことに起因する医療トラブルが増加し、社会問題になり始めた。また、治療を提供する医師側の明らかなモラル欠如と思われ金銭や女性関係にまつわる刑事事件なども発生し、この医療の評判を下げる結果となった。そして人々が、美容外科医療に対して他医療とは一線を画した印象を持ち始めたのも、人を救うという医療の本来あるべき姿から大きく逸脱する例が跡を絶たなかたからだろう。逆の見方をすると、モラルが欠如した医師でもすぐに美容外科医の仕事に従事出来るほど、当時は美容医療が需要過多となっていたのだろう。


銀座CUVOクリニックオフィシャルサイト


第4回JAAS(日本抗加齢外科・再生医療研究会)東京LiveForum (2013年9月22日〜23日開催予定)


抄録:

下眼瞼形成術の歴史を振り返ると、この治療は今から約80年前、ヨーロッパを中心に皮膚切開法を用いて始まったとされる。いわゆる"baggy eyelid"と呼ばれる下眼瞼の膨隆は、目の下のたるみと認識されやすく、老化を強く感じさせる外見的兆候である。そのため、この症状の改善を求めて美容外科を訪れる人々は、美容医療の普及とともに年々増加するようになった。


当クリニックは2005年の開業以来、この治療を主体に診療を展開してきた。下眼瞼の悩みを抱える患者が当クリニックに集積した主な理由は、当時皮膚切開法による下眼瞼形成術が主体に行われていたにも関わらず、当クリニックでは皮膚切開なしに下眼瞼結膜面からアプローチする方法を全面的に打ち出したためである。


当時この方法は、若年層で比較的症状の軽い症例のみが適応とされ、加齢に伴う下眼瞼膨隆・下垂の解決にこの方法が用いられることはほとんどなかった。ここで私が開業前に勤務していた美容外科の老舗、十仁病院での診療を例に挙げる。当時も十仁病院に下眼瞼治療を求めて多くの患者たちに皮膚切開法を勧めても、この治療を拒むケースが後を絶たなかった。


その状況を見た私は、なんとか皮膚切開せずに下眼瞼の悩みを解決出来ないかと考え、その打開策を求めて海外へ飛びだった。その経験から皮膚切開なしの下眼瞼治療への感触を得、開業当初から中高年層世代へこの治療を試み始めた。当時誰も行わなかったこの治療法の適応は物議を交わし、外部からの誹謗中傷や非難的な意見も少なくなかった。


確かに当時、皮膚切開法用いずにこの問題を解決するいわゆる"脱脂法"は、下眼窩脂肪を抜去するのみで、適応を考えずにやみくもに行うと、凹みや予想しない皮膚不整やしわを発生させるリスクがあったため、脱脂は極めて控え目に行わざるを得なかった。だが脱脂を控え目に行うと、得られる治療結果が乏しいといったジレンマに陥るので、皮膚切開を用いない下眼瞼手術法の開発は困難を極める局面もあった。


そしてついに治療法は脱脂から下眼窩脂肪の均一化・平坦化を図る方法に収束し、安定して良好な結果が得られるようになった。この治療を脱脂一辺倒で行った開業初期の頃、脱脂に伴う凹み等、その修正などの苦い経験をしたことは認めざるを得ない。だが外科医は控え目で保守的な治療のみを行っていても、画期的な治療法を確立することは出来ないと言われる。


すなわち外科医がより良好な結果が得られる画期的治療法を目指す場合、従来まで行われていなかった新しい方法に挑戦せねばならない。だがおうおうにして、こういった新たな挑戦はすぐに成功に結びつく訳ではなく、試行錯誤・紆余曲折を経て次第に完成されてゆく。熟練した先輩外科医たちは、口を揃えて"新法を開発する際、小さな失敗を冒すのはやむを得ないがそれは必要最小限に留め、それを反省しつつ改良を加え、新たなその治療法のの完成度を高めるべき"と言う。


私自身、皮膚切開を用いない下眼瞼形成術の開発にあたってまさにこの過程を経験し、次第にその完成度を高め、最終的にどのような症例に対応する治療法を確立したと自負している。今回の発表では従来まで行われていた"脱脂法"から、私が改良を加えた経結膜的下眼瞼形成術への過程を、その紆余曲折も含めて説明する。


目の下のくま治療について

目の下のたるみ治療について